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(大理石の町・エストレモス)
Portugal Photo Gallery --- Estremoz

エストレモス1
別世界の入り口
別世界の入り口

エストレモス2
青空に包まれる
青空に包まれる

エストレモス3
大理石の町
大理石の町

エストレモス4
天からのメッセージ
天からのメッセージ

エストレモス5
サンタ・イザベル王妃
サンタ・イザベル王妃

エストレモス6
立ち話
立ち話

エストレモス7
カフェ・アレンテジャーノ
カフェ・アレンテジャーノ

エストレモス8
中世の入り口
中世の入り口

エストレモス9
霧の朝
霧の朝

エストレモス10
チャームポイント
チャームポイント

エストレモス11
魔法の水
魔法の水

エストレモス12
社会見学
社会見学

エストレモス13
忠犬ゴン
忠犬ゴン

エストレモス14
牛の鈴職人
牛の鈴職人

エストレモス15
きょうのニュース
きょうのニュース

エストレモス16
ベテランの技
ベテランの技

エストレモス17
ひつじの城
ひつじの城

エストレモス18
城壁のひつじ
城壁のひつじ

エストレモス19
空が屋根
空が屋根

エストレモス20
貨物列車が遊び場
貨物列車が遊び場

エストレモス21
バスターミナル
バスターミナル

☆エストレモスの説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
ファーロから、6時間半、エヴォラから、1時間半のところにある町。
ゆるやかな丘陵の上に建つ城壁で囲まれた町は、陶器や、土人形で有名である。
中世のままの塔と壁のある「上の町」と人々の生活の場の「下の町」から、成っている。
半日くらいで歩ける、小さな町である。
郊外には、大理石の採石場が、多く存在している。

「ポー君の旅日記」 ☆ 大理石の町・エストレモス ☆ 〔 文・杉澤理史 〕

  

 《北海道ほどの面積しかないポルトガルで6時間半のバスの旅をした。 南部のリゾート地ファーロから北に250キロほどバスで走ると城壁に囲まれたエストレモスの町があった》
 その朝(2002年2月12日)は快晴だった。 「カタカタカタ」と鳴くコウノトリに送られ、ファーロのバスターミナルを発ったのは、朝7時45分。 エストレモスまでの運賃は12・6ユーロ(1638円)。2階だての高速バスは快適だった。 赤い花柄の座席に赤いカーテン。 赤い天井の車内に赤い帽子の相棒。相棒の写真家は出発30分後には後部座席で夢の中だった。 実は、ほんとは、前日に出発だったが、このバスの時間を勘違いして、今日になってしまった。 (このへんの事情はファーロ参照。) ポルトガルの内陸地帯を南から、北に縦断するバスは1日に1本しかない。  歩き回ったファーロの町を抜けると、広い空に黒墨をたらしたような雲が湧きあがり、光り輝いていた緑の草原は黒雲の陰におおわれていった。 雷でも落ちそうな怪しげな雰囲気の車窓になった。 相棒は座席シートで寝がえった。シートがべッドになっている。 2階は前座席に4人しかいなかったから、ポーは許して見守った。

 2時間走って1回目の休憩。街道のレストランがバス停だった。 15人ほどが降りて飲み物や菓子などを調達。なにも手にしていないのはトイレ組か。 相棒は停車時に一瞬目覚めたがそのままだった。 コルク樫(かし)の木が植えられた草原が点々と1時間ほど続く。 2回目のバス停は街道から5分ほど入った小さな町であった。 一人の若い女性が降りて、三人のお年寄りが乗り込むとバスは街道に戻り、更に北上した。

 雲間からこぼれる陽だまりの中に、羊の群れが浮かぶ。 『きれいだね〜』車窓を眺める相棒のお目覚めの顔があった。 そして、ペットボトルのお茶を美味そうに飲んだ。 水のボトルに、日本で行きつけの回転寿司からいただいてきた緑茶袋を2つ入れ、昨夜作っておいた「お茶」だった。 『お茶は日本茶にかぎるね!』と目覚めの相棒。 (麦茶の紙パックも用意していた。ポーには考えられない技だ) 『後、どのくらいかかるのかな〜』と2時間ほど眠っていた相棒。 「3回目のバス停がテクノビアという小さな町で、そこを発ったのが10時25分。 まあ、後4時間はかかるとおもうよ」とポー。 『・・・おなか、空いたね〜』 朝食は昨夕、スーパーで買った残りのパンをファーロのバス待合室で食べたきりだ。 腹が減っているのも無理もなかった。 「ゴマ煎餅で一時かせぎ、だね。昼はたらふくと願いたいね」

 「けいの豆日記ノート」
 ポルトガルの水は飲めないわけではないが、なるべくなら飲まないほうがよいと聞いていた。 どこでもそうだが、水は買わなくてはならない。 スーパーで、大きな2Lペットボトルを買って小さいペットボトルに詰め直す。 大きくても小さくてもあまり値段はかわらないからだ。 ジュースは甘いし、水じゃそっけない。 お茶もウーロン茶も売ってないので、このお茶パックが役に立つ。 暖かいお茶用のペットボトルは口が大きくて、パックが入れやすいので、わざわざ日本から持っていったよ。 これは、我ながら、いい考えだと思ったよ。

 4回目のバス停はやや大きな町ベージャ。乗り込む人が多かった。 11時15分に発って1時間余りまた草原を走り抜け、5回目のバス停に着いた。 エヴォラのバスターミナルだった。12時15分。 車内アナウンスが終るとざわざわと乗客が降りだした。 2階の窓越しに、楽しげに下車して行く人々を眺めていたら、パンチパーマの運転手がやってきて何かしゃべる『△□☆><?』降りろと言っているようだ。 荷物を持ったら、そのままと言う感じ。『乗り換えじゃないよ、これは』と相棒。運転手に従ってバスを降りた。 バスに鍵をかけて運転者は指一本あげ、そして食べるアクション。 『一時間の昼飯時間なんだよ、ポー』と相棒が微笑む。 未体験にわくわくだ。まさか、昼になったらバスから全員が下車してランチタイムとは。 バスターミナルから足早にパンチパーマが出て行くのを相棒が目撃。 『ついて行こう、ポー!きっと行きつけの食堂よ!』写真家の眼だった。

 白い壁沿いの石畳をパンチ君が煙草を吸いながら急ぐ。後を追った。 《SICAL》 と書かれた薄汚れた看板がかかった小さなレストランに入った。 相棒の勘はドンピシャ! 間口は狭かったが店内に入ると奥が深い。しかも客がいっぱいだ。 テレビ番組はお笑い番組か。天井から吊り下げられたテレビを見ながら客が笑いながら食事中だった。 隣の席に料理を運んできたおばさんが相棒の顔を物珍しげに見て『ジャポネーザ?』相棒は『sim!』と答え、おばさんが持っている料理を指して『um(ひとつ)』と注文した。 パンチ君がこちらを見て微笑んでいた。後をつけていたのを知っていた顔だった。 予想通りパンチ君は美味くて安い店にご案内。けいちゃんの大勝利だ。 料理は一皿に、炒めライスに揚げたポテトと豚肉が山盛り。二人で充分の量だった。 それに、ビールとファンタで7ユーロ(910円)。満腹だった。

 「けいの豆日記ノート」
 料理を頼む時は量が多いので、2人で1人前で充分だ。 1つ頼んだつもりでも、1人に1つだと思われて、2人分持ってきてしまうことになる。 だから、ひとつでいいということを強調しないと、困ったことになるよ。 親切な店は、二つの取り皿まで持ってきてくれたりするね。 バスの運転手さん、ビール飲んでいたよ。『あれくらいでは、飲酒運転にならないのかなあ。』 と思っていたら、エヴォラで、交代らしい。そうだよね。長時間はたいへんだものね。

 13時15分エヴォラを出発。バスに乗るとき相棒がパンチ君に折り鶴を1羽差し出す。 俺にくれるの、という表情が笑顔になった。 ここで、運転手が交代だ。 また、バスは草原を走り抜けた。40分ほどでゆるやかな丘の上に〔白い町〕が見えてきた。 そこが6時間半の大移動の終着〔エストレモス〕だった。 バスは、まだまだ北上する。

 (バスターミナルから500メートル、石畳をガラガラ音たてて重いバックを転がした。 広場にはテント張りの店が並び、音の発信元のポーをおばさんたちが見送ってくれた)
 ホテルはカフェの2階。部屋は103号室であった。 広場に面した≪カフェ・アレンテジャーノ≫は「ポルトガル朝昼晩」という旅の本で知った宿だった。 二人の女性がこのホテルの部屋で過ごした10日間の記録を漫画調に仕上げたもので、面白かった。 彼女達が泊まったのは隣の部屋だった。 窓のカーテンとベッドカバーが同じ絵模様だ。 窓を開けると青い空からすがすがしい空気が部屋を駆け巡った。 一泊40ユーロ(5450円) 勿論、朝食つき。冬のこの時期だ。もっと安くてもいいのだが。

 「けいの豆日記ノート」
 ほんとは、最初の計画の時には、エストレモスは予定に入っていなかった。 でも、直前に読んだ本があまりにおもしろかったので、同じホテルに泊まってみたいと思った。 この本のふたりには、久々に笑いこけてしまったよ。 本にはホテルの名前はなかったが、1階がカフェというヒントでここだと見当をつけた。 やっぱり、正解だったよ。 なんかうれしいなあ。

 荷を解き、町に飛び出した。14時半が過ぎていた。 トリズモ(観光案内所)のマークが眼の先にあった。地図と観光パンフをもらう。 パンフは辞書で長い時間かけて、読む。 ポーの仕事だった。(正直、三分の二以上は、判読不明!だ)だから、頼りはガイド本。 でも、情報をすべて信じてはいけない。時は刻々流れているのだから。 しかし、旅人にとってガイド本は、旅の羅針盤だった。 ポーの羅針盤は《地球の歩き方》。初めてのポルトガルの旅以来、持参する羅針盤の本だ。 こいつを信じないと、先に進めない。 (こいつを信じて4年間、旅を続けているが、もう少し宿泊情報が欲しいと思うけど。 2004年、旅の途中でこの羅針盤をバスに忘れ、その後の旅を続けるのに難儀した。 教訓・羅針盤は二冊もって行け!だった)

 《エストレモスは二重の城壁で囲まれた中世の雰囲気にあふれた町であった。 一つ目の城壁の中は、ロシオ広場を中心にした「下の町」と呼び、ホテルやレストラン、カフェ、商店、住宅地で占められた生活空間。 二つ目の城壁の中は、13世紀以来ほとんど変わっていないといわれる「上の町」と呼ばれている空間だった》
 トリズモ(観光案内所)から石畳の坂道を登ると、石段があり、石積のアーチが口を開けていた。 ふたつ目の城壁の城門だった。 城門をくぐった。 擦り減ったような石畳が坂道の奥に伸び、見上げると城跡が青空に浮かんでいた。 青空に溶け込んでいる城跡を目指して歩いた。城門をなぜか意識して、くぐった。 急な石畳の坂道が、延々と続く。汗が、噴出す。 13世紀に作られたという城跡がポザーダ(国営ホテル)になっていた。 ポルトガルにポザーダが40ヶ所以上あるそうだが、ここはその中でも《最上級》の部類だそうだ。 我らには高くて泊まれないホテルだった。(ロト6が当ったら、がんがん泊まるぜっ!)

 「けいの豆日記ノート」
 ポザーダは、あこがれだなあ。お城に泊まるのってリッチだよね。 でも、昼に歩き回るから、クタクタになってしまって、バタンキューだもんね。 どこでもいっしょだよね。・・・・・と負けしみを言ってみる。
 中世のままのお城のある「上の町」というと、すごくいいところのようだけど、 坂道をずっと登らなくてはならないし、買い物は遠いし、生活向きではないよなあ。 やっぱり、住みにくさは、あるようで、廃墟とかも結構多かったのは、こういう訳もあるのでしょうね。 便利なところに住みたいものね。現実的かなあ。

 ここからの展望は、王様になった気分だった。「下の町」の大パノラマ。 白い壁の上にオレンジの屋根が連なる景観が心を打つ。その町並みの先には緑の草原が延々と続く。 支配していると言う実感に酔う。これが、支配者の虚構か。素敵な支配風景だった。 それほどの、美学を見せつけられた景観でもあった。 その景観を見下ろす像に出会った。バラを両手の中に包み込むイザベル像だった。 イザベルはスペインから迎えられた王妃であった。 伝わる話では[王妃は城からパンや金貨を持ち出しては下の町の貧しい人たちに日々与えていたという。 ある日、王に見られたイザベルは観念して両手を広げた。金貨やパンがバラの花に変わっていた・・・という] サンタ・イザベル像は淋しげに、輝いて「下の町」を見下ろしていた。

 サンタ・イザベル王妃の礼拝堂には、壁一面にイザベルの奇跡や生涯がアズレージョ(タイル画)で描かれていた。 歴史の中で生きた女性はポルトガルだけではない。 今年の、大河ドラマ「義経」の中で日本の女性も、時代の流れの中で可憐に自我を失うことなく生きていた。 イザベルの像から狭い「上の町」の石畳の路地を歩いていたら、小学生の一団に出会った。 自分の町の歴史を学ぶ「下の町」の子供達が母親同伴で社会野外学習中だった。 自分たちが住む町の歴史を文字の上でなしに実写の学習だ。子供達の目がキラキラ輝いていた。 大昔の自分を思い出させてくれた。城跡の端まで昇ると、羊の群に出会った。 30匹以上の羊が「下の町」を見下ろす高台のわずかな牧草地で飛び回っていた。 キリスト画に出てくるような、羊たちだった。

 羊の光景を見た後、小さな郷土博物館を見つけた。1・03ユーロで入館。 この地の歴史博物館だった。エストレモスの民芸品である土人形が眼に飛び込んできた。 色彩豊かな可愛い土人形の行進だった。ポーは相棒の姿を探す。
いた!記帳ノートの前に座り、コリコリとボールペン中だった。記帳簿があれば必ず、書く。 それが生き甲斐みたいに、書く。趣味を超えていた。書かないといられない。 それが、相棒だった。ただただ、感心し、少しあきれてもいた。 相棒にとっては大切な《愛しのポルトガルへの伝言》であった。 (今だに、あそこの伝言を読んだぞという連絡はない。 が、今に必ず読んでくれた人から連絡が来ると信じている。 それが、相棒のささやかな《夢》だった)

 「けいの豆日記ノート」
 郷土博物館の裏に小さな庭があり、昔使っていた石臼などが所狭しと展示してあった。 そこで小さな小屋を見つけた。覗いたら2人の男の職人が素焼きの人形に色付けの作業中だった。 撮影してもいいの?とカメラを向けると「sim!」と言って頷いてくれた。 30センチほどの女性の人形が見ているうちに色鮮やかな衣装姿になる。 ここで作られたものが博物館の土産店で即売だった。 お礼に折り鶴をあげたら、千代紙のデザインに興味津々。 持参の千代紙を10種類もあげたよ。大喜びで「belo!(美しい!)」の連発。 『まっ、いいか!親善親善!感謝感謝!』だよね。

 博物館を出て、店先に陶器を干している青年に会う。 店の中に入ると何故か見慣れた器にあった。急須だ。 ポルトガルに来て急須を作る陶芸家に会ったのは初めてだった。 彼は、5年前、愛知県の陶芸の町、常滑で3年間修行していたという。 ポーも常滑で、趣味で土いじりをしていると言うと、眼を輝かせた。 ホームステイで1年間、常滑で生活した後、二年間残って陶芸に励んだと言った。 日本に来たら常滑の隣町に住んでいるから連絡してくれとアドレスを渡した。 ホームステイを受け入れる約束をして別れた。彼の笑顔が残った。

 犬に、会った。名前はゴン。ゴンザレスの略?写真家が勝手に決めた名前だ。 石畳の道に干された洗濯物の生活感をカメラに収めていた時、相棒がゴン?を発見した。 前足を踏ん張り、何かを守っている雰囲気が彼?にはあった。近づいて、見た。 ゴンの後で赤土を煉っている男がいた。こちらも陶芸家か。

 「けいの豆日記ノート」
 ゴンの家は、赤土で陶器にした鈴みたいなものを作っている職人さんの家だった。 『入っても、いいですか〜!』って、言ったら頷いてくれたので、入った。 日本語だよ、勿論! 陶器の鈴が所狭しと吊り下げられ干されていた。 50歳代だと思うけれど優しい人だった。この大小の鈴は、牛の首に吊るす鈴だと言う。 自分が載った新聞記事まで見せて説明してくれた。とても嬉しそうにね。 日本の人に興味を持ってくれたのは初めて!と言ってるようだったよ。 かってに、そう思ったりして。 ポーは赤土を両手で煉って、「いい土だね、手触りが最高だよ、」なんて言ってご満悦だったけれど、伝わったかな〜。 でも、30分もお邪魔してしまったよ。

 「上の町」を歩いていての発見があった。石畳が大理石なのだ。  白を始め鼠色や黒などの大理石がふんだんに敷き詰められた石畳だった。 ポルトガルの石畳を各地で歩いてきたけれど、大理石は初めてだった。 小雨に濡れる大理石の石畳を歩いてみたいと思う。 夕食は「下の町」のスーパーで調達。トマト・チーズ・いちご・ パン・ウイスキー・水・菓子で8・43ユーロ(1096円)。 『ポーのウイスキーが高かったかな、でも3ユーロ、400円もしないけれどね』と相棒。 その夜、相棒は大理石の風呂に入れてご機嫌であった。

 エストレモス2日目(2月13日)の朝。 窓を開けたら白い霧が流れ込んできた。目の前はロシオ広場。 その白い空間を眺めていたら霧が割れて教会の建物が逆光の朝日の中に浮かび上がってきた。 『わ〜お!神秘!』つぶやきながら、シャターを相棒は切り続けた。 神からのプレゼントだった。 朝食は下のカフェに用意されていた。ホテル宿泊者は我らだけ。 でも、店内は常連客でいっぱい。 通勤前の人々がコーヒーで焼きたてのパンを食べながら新聞を読んでいる。 3種類の焼きたてパンの香りはたまらない。『おいしーい!』相棒の笑顔が弾けていた。 外に出たが霧は消えていなかった。公園の常設露天商の働くおばさん達を撮らせてもらう。 勿論、お礼の《折り鶴》は忘れない。 折り鶴を手のひらにのせて見つめる笑顔がたまらなくいい。

 「けいの豆日記ノート」
 本屋かな、と覗いてみたら小さな図書館だったよ。 可愛い子供達がVTRで動画を見ていた。日本のまんがだった。
受付の女性に撮影許可をもらい撮る。 まんがに夢中の子供達はちょっと迷惑そうだったよ。 20分ほど撮影して外に出たら、霧が消え青空になっていた。 やったね!また、「上の町」の城に登る。 遠くの草原や眼下の街並みを堪能。すごくきれい。 やっぱり、晴れに限るよ。

 「下の町」に戻りホテルのレストランで昼を取る。 お世話になったオーナーに《愛しのポルトガル写真集》を贈る。 身体も心もまんまるなオーナーがページを開き感嘆してくれた。笑顔が弾けた。 13時25分発のバスでエルヴァスに向かった。 途中の車窓から大理石を発掘する大規模な現場が見えた。露天掘り工法だった。 ポルトガルは大理石の生産地だったのだ。 石畳に惜しげもなく大理石が使われ、墓地は大理石の碑で埋め尽くされている謎が解けた。
 車窓には、限りなく青い空が広がっていた。                          *「地球の歩き方」参照*

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