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ポルトガル写真集(太陽海岸のカスカイス2)
Portugal Photo Gallery --- Cascais 2

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カスカイス13
カスカイス駅


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CM列車

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キヨスク

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サークル

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駅前

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バス停

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マクドナルド

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オープンカフェ



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売り子


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目が離せない

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ウェイター

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工事中は広告塔



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露天


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赤いシャツ

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顔なじみ

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イタリア料理店

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町の教会

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豪華な別荘

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レストラン

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おしゃれな通り

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ジャカランダ並木

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公園のジャカランダ

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海辺のベンチ

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寝ころぶ人



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海岸


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見返り美人

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赤い浮輪

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海岸のホテル



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高台の別荘


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木陰を求めて

カスカイス43
海辺の散歩

カスカイス44
海岸のハト

☆カスカイスの説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
エストリルからリベイラ海岸に沿って西へ約15km、古くからの漁師町である。
19世紀に王室一家の避暑地となってから急激な変化をつげて、有名なリゾート地となった。
日常生活とリゾートが一体となった魅力ある町である。
北ヨーロッパやアメリカからの観光客も多い町である。

「ポー君の旅日記」 ☆ 太陽海岸のカスカイス ☆ 〔 文・杉澤理史 〕

≪2008紀行文・2≫
    === 第一章●中高年層の避暑地・リスボンっ子の海水浴場 === カスカイス 2

 ビジネス街にあるリベルダーデ通りは、1755年リスボン大地震後の都市再建で造られた道幅90メートル、 長さ1500メートルのリスボンを代表する大通りだ。 背の高いプラタナスの木々が茂り、まるでプラタナス林の並木道である。 通りの中央はベンチが並ぶ公園になっている。 陽射しの強い夏場は木の葉で遮断され涼しく、これからはお年寄りたちや恋人たちの語らいの場になり、 市民の憩いの場として賑わうに違いない、と思いながらポーは相棒の後を追っていた。 2008年6月6日(金)の午前10時半であった。

 「けいの豆日記ノート」
 ポンバル伯爵公園のジャカランダの花をたっぷりと見ることができた。 日本の桜の木のように、桜並木でもないところでも、あちこちで咲いているのかと思っていた。 でも、リスボンでは、このポンバル伯爵公園以外では、見ることがなかった。 リベルダーデ通りでもジャカランダはなかった。 町中が、薄紫の花で埋め尽くされるのかなという期待は、ちょっと無理があったようだ。

          《リスボンの避暑地カスカイスに向かう》

 〈在ポルトガル日本国大使館〉を出ると、相棒は石畳の坂道を下り、地下鉄に乗るためのゲートを リベルダーデ通りの公園脇で探しあて、階段を下って行った。 ポーにはできない慣れた手つきで地下鉄の切符を買い、アヴェニーダ駅から2つ目のバイシャ・シアード駅で乗り換え、 終点のカイス・ド・ソドレ駅で降りた。 11時。日和(ひより)の暖かさが全身を包む。 昨夜、リスボン空港で旅行バックをロストされ、名古屋からの着のみ着のままの荒(すさ)んだポーの心も、陽射しの暖かさでなごんできた。  地下鉄からCP(国鉄)の列車に乗り換えだ。

 相棒の先輩Yさんとの約束時間は12時カスカイス駅のプラットホーム。 リスボンの避暑地カスカイスまでは35分で着く。
 『初めてだね、ポー。すごい人だね。嬉しいよ!』 相棒が喜ぶはずだ。CPカイス・ド・ソドレ駅のプラットホームには、浮き輪やシュノーケルを持った若者が目につく。 どの顔も若さの笑顔が弾けていた。
 『(カメラを向け) い〜い? オブリガ―ダ!』 ありがとう!の矢を放ち続けながら、相棒はプラットホームの端から端まで歩き、笑顔で若者たちを撮っていた。
 「ジャポネーザ?」『 S i m ! 』 相棒は楽しんでいた。 「日本人のお嬢さんか」と聞かれたように、「そうよ!」と、舞っていた。 (ジャポネーザは日本人の女性形、お嬢さんとはね。我田引水だぜ、相棒よ)

 「けいの豆日記ノート」
 何歳になってもお嬢さんだ。 何歳になっても親から見れば子供は子供である。 70歳でも80歳でも関係ないと思う。
 カスカイスは、もう4回目である。 リスボンから近いこともあって、行きやすいこともあるのだが。 列車で直通であり、本数も多く、値段も安い。 首都リスボンまでの通勤圏内でもあるのだろう。 海のそばの別荘に住んでみたいものだ。

 まるで海かと思うような幅広いテージョ川の輝く流れを下手(しもて)に、列車は軽やかに線路の継ぎ目の音を拾って走る。 そのリズムと白い背中も露(あら)わな黒髪の女の子たちのお喋りが、音楽のように心地よくポーの耳に響いてくる。 それに、相棒が放つシャッターの音がメロディーに弾(はず)みをつけた。 車窓に懐かしい景観が飛び込んできた。 次のサントス駅を過ぎると大西洋に流れ込んでいくテージョ川に、全長2278メートルのつり橋〈4月25日橋〉が雄大に迫って来る。橋の対岸には〈クリスト・レイ〉と呼ぶ高さ110メートルの巨大なキリスト像がはるか先に小さく見える。 アルカンタラ・マール駅を過ぎると、すぐつり橋の下を列車は通過する。 視界が広がると、ベレン駅だ。

 この駅で下車するのは中高年の観光客ばかりだった。 なにせ、ここベレン地区はポルトガルの輝かしい大航海時代が満喫できる観光名所の宝庫だからだ。 ベレン駅を発車するとすぐ上手(かみて)に、白く見える大理石で建てられた名所の一つである世界遺産の 〈ジェロニモス修道院〉が華麗な姿で飛び込んでくる。 ポーは特に、その大理石に何年も費やし刻みこんだ優華な彫り物〈南門〉の繊細さが好きだった。 作家・司馬遼太郎は『街道をゆく』のなかで、初めてジェロニモス修道院を見たとき、《皮膚色の大理石が、 よほど結晶粒がこまかいのか、うすぎぬを透した女性の肌を思わせるように美しい》と記述している。 (朝日新聞社/文庫本・街道をゆく23)

 下手には、テージョ川に突き出して帆船をモチーフにしたモニュメントがある。 小さな国ポルトガルから世界の海に向かって、大海に夢を託した仲間と歴代の勇士と共に、 その夢を実現したエンリケ航海王子のイメージ〈発見のモニュメント〉がテージョ川の勇壮な川面に浮き上がる。 さらに、船の出入りを監視し、世界の大海から帰ってきた勇者を出迎えたという、 マヌエル様式の要塞〈ベレンの塔〉と世界遺産が続いて車窓を飾る。 2年前、大西洋に沈む夕日で真っ赤に燃えていくベレンの塔の七変化(しちへんげ)の美しさに圧倒されたあの時の快感が、 ポーに甦っていた。 この一帯はリスボン中心街から路面電車でも30分もかからず、大航海時代を充分楽しめる相棒とポーの好きなエリアだった。 テージョ川河口の先は、大西洋である。

 そこに、エストリル駅があった。上手には大きなホテル群が目立ち、下手が大西洋だ。 若者たちの弾ける声が、エストリル駅プラットホームに押し出されていく。 青い空と碧い海と白い砂浜の海水浴場が、列車の窓いっぱいに広がっていた。 車体が急に軽くなった感じだ。急に賑やかだった若者の声がなくなるとさびしい。 そして、5分も走ると終点カスカイス駅だった。
 『夏場のカスカイスは、初めてだね、ポー。まったく、真夏日だよ!』 長いプラットホームが強い陽射しで、真っ白く焼けて見えた。 〔雨が降り続き真冬のような寒さです。厚手の長袖を忘れないように。会うのを楽しみにしています〕  名古屋を出発する3日前に、この〔カスカイス〕に住む相棒の先輩Yさんから親切なメールが届いた。その4日後だった。
 『ポーは、晴れ男だからな〜!Y先輩もびっくり、シャックリでしょうよ!』 と、吐いた相棒が身を固めた。 そのYさんが、プラットホームの先にある駅舎前で、手を振っていた。

 4年振りの再会である。 黒い麻のショールを肩から膝下まで身にまとったYさんは、70歳を過ぎているとは思えない若々しさがあった。  一昨日まで雨が降り続き、寒かったのにね、あんた達が来たら、この天気よ!と白髪を左手でかき上げ笑って迎えてくれた。 相棒は先輩に深々と頭を下げた。 そして、あんたも元気そうね〜と、ポーの肩をポンポン!と二度叩いた。 お会いできて、嬉しいです!とポーも頭を下げていた。彼女には威厳があった。
「今日は、ピザでいい? 最近見つけたのよ、美味しいわよ!」 昨日、チャウ!と別れたばかりのような雰囲気で、嬉しそうにYさんは笑って、改札口のない駅舎を出た。 4年間のブランクを感じさせないYさんの人柄がありがたかった。 相棒はその後ろ姿を撮った。ポーは切符を握りしめたまま、足早なYさんの後を追った。  駅前は広場になっていて、半円の白帯と黒帯の石畳が波模様に交互に敷き詰められている。 そのさざなみ模様がそのまま町の明るいたたずまいに向かって、押し寄せて行くように見えた。

 「けいの豆日記ノート」
 Y先輩とは、高校の総会&同窓会の会場で、偶然、知り合うことができた。 昔々の旧制中学のときからの卒業生の人たちがいっぱいであった。 平均年齢60〜70歳くらいであろうか。 普通だったら、知りあいもいないような同窓会に行くわけもない。 たまたま、係りになってしまったので、手伝いに行かなければならなかった。 立食パーティの会場で、ポルトガルに住んでいるというY先輩が紹介された。
 『え〜! ポルトガルに住んでいるんだ〜 なんとしても知り合いにならなければ・・・』
はじめてポルトガルに行ってすぐのときであった。 次のポルトガルの旅から、毎回おじゃまするようになったのは運命なのだろうか。

          《おしゃれなオトナの街カスカイス》

 かつて、カスカイスは漁村であった。 19世紀に王室の避暑地になったことで、カスカイスはヨーロッパの人々の心を鷲掴みにし、急速に名を馳せていったという。 これはポーの思いだが、当時のリスボンっ子たちは黙っているはずはない。地元の海を他国の人々に荒らされたくはない。 他国の海にはしたくない。ポルトガルにも海を愛した〈太陽族〉は、いたはずだ。 (しかし、当時は時勢が不安定であったから、海水浴場を守るほどの気力が若者たちにあったかは定かでない。 でも・・・いたと信じたい?)  そういうポーは、実は太陽族であった、と書きたいが、ただただ海が好きだった。太陽族になれる家庭環境ではなかった。 太陽族世代ではあったが。
 《石原慎太郎著「太陽の季節」(昭和30年・第34回芥川賞)》
 その頃ポーは、仲間と下北沢から小田急線に乗って江ノ島海岸の海水浴場に行った。 海はまさに芋を洗うがごとくの混みようだ。 ポーは、湘南の金持ちのおぼっちゃま《太陽族》とは雲泥の差の、《芋洗い族》であった。

 カスカイスにはアメリカ人も多かった。英語が飛び交っていた。 白い短パン姿に毛むくじゃらの腕の老夫婦が、パラソルの下でワインを飲み仲間と声高に話をしている。 その脇をYさんは軽快に歩いて行き、レストランの店頭で店主と話しだした。 笑顔で話す内容はポーには判らなかったが、眼の配りで日本から来た我々のことを話題にしていることは察せられる。 20歩も歩かないうちにYさんはブティックの女将さんにつかまる。話が弾む。長い。でも、相棒はそれが嬉しい。 写真が撮れる時間が得られるからだった。 狭い道の両脇には、レストランやお土産屋、ブティック、アイスクリーム屋、果物屋、家具屋、時計屋、服地屋、本屋、金物屋などが、 店は大きくはないが寄り添って並んでいる。 おしゃれな店が太陽の陽射しを受けて、輝いて見える。

 Yさんは、この街の人気者のようだった。 会話ができるのって、いいね、と相棒が囁いた。ほんとだねとポーは返した。 笑顔のYさんは、呼び止められるたびに会話が続く。楽しそうで、いいなあ、とポーは思う。   ポルトガルの人と結婚して早30年が過ぎた。 ご主人を亡くし日本に帰ろうかなと思った時もあったようだが、住み慣れた地には仲間が多い。 この地からホイホイとは帰国出来ないようだ。きっと、ポルトガルの空気が合体したのだ。 どこを歩いても、歩道も車道も石畳である。その石畳の模様が各路地で変わり楽しい。 路地から信号がある通りに出た。広いといっても道幅が8メートルもない通りの横断歩道を渡ると坂道になる。 その先は、住宅地だった。

 「お待たせ〜、ここよ!さっ、入りましょう!」 ピザ・レストラン【IL SICILIANO】と読めた。平屋の店だが、路地から路地を歩いて見てきた店より広かった。 Yさんは、店の顎鬚が似合うシェフに案内され広いガラス窓際の席に座る。予約席のようだった。 任せてくれる?と相棒の顔を見た。深くうなずいた。 トマトスープ、生ハムのサラダ、大判のピザ。二人はコーヒー、ポーはグラスビール。 「よく来たわね、えっ、もう6回目!あなた達みたいな旅行者は初めてよ、しゃべれないのに、ご免ね、感心しているのよ、 ホント、2万歩も一日歩き撮影しているそうね、それもポルトガル一筋なんてね、」と言って嬉しそうに笑顔でうなずいた。

 ポーは、Yさんの話題に心が引かれていった。 ポルトガルも通貨が2002年からエスクードからユーロになってから、徐々に物価が高くなったこと。 大学を出てもコネがないといい就職先がないこと。 不況で老舗の陶器製造会社も長い歴史にピリオドを打つかも知れないこと。 建物の老朽化でその修復工事をどうしていけばいいのかなど、世界的にも世の中が揺れ動いていると、 Yさんはポツポツと静かに語った。 でも、市民は明るいわよ、明けても暮れてもフットボール(サッカー)に熱狂している、とYさんは声を出して笑った。

 「けいの豆日記ノート」
 毎回のように食事をごちそうになっている。 お土産もなく、貧乏な後輩ですみませんです。 日本にも、よく帰っているようなので、日本のものは、不自由していないと思う。 外国で生活するのは、ポルトガルに限らず、たいへんだと思う。 何十年も生活して、ご主人が亡くなっても日本に帰ることなく生活している。 それだけ、ポルトガルという国の割合が広く占められているのだろう。 悪いこともたくさんあるだろうが、それ以上にすてきなことがあったのだろう。 こんな大先輩と知り合えることができて、よかったと思う。

 カスカイスの商店街は駅前が中心で広くはないが凝縮していて、散策していても飽きない。 駅前のにぎわいを外れれば、その先は閑静な住宅地が広がっていた。 ジャカランダの並木には色褪せた花がまばらに残っている小さな公園もさびしげだ。 大きな敷地に別荘風の建物が目立つ。ヨーロッパや北欧、東洋の人々の保養地として使われている家が多いとYさんが話す。 日本人の別荘もある。名のある建築会社の会長の別荘地だと知る。でも、売りに出たみたいと言った。 ここには、大きなホテルが少ないが、でも別荘を持つオトナの街、避暑地という雰囲気があった。

 個人で借りている日本人に5年前会ったことがある。定年後日本に家族を残し一人でこの地に住んでいたNさんだ。 3回目の写真取材に行く1ヶ月前に、ひょんなことが縁で連絡を取り、カスカイスで会えることになった。 2階建ての築20年ほどの借家は、部屋が7部屋ほどあり、トイレと風呂が3か所もあるという。 広くて高い天井のキッチンで2時間ほど話した。家賃は月12万円。家政婦付きであった。 我々とは、生活レベルが違っていた。羨ましいですね、と口には出したがポーの住む世界ではなかった。チャイムが鳴った。 家政婦さんが来たらしい。これから、昼飯と夕飯を作ってくれるという。 お邪魔と察し、家を後にした。大西洋から冷たい風が吹いていた。まだ肌寒い3月上旬であった。

 真夏日の太陽だった。海辺に向かう途中のアイスクリーム屋に吸い込まれていくふたりの姿は、まるで親子である。 Yさんに買ってもらったソフトクリームを、相棒が嬉しそうに舐めながら店から出てきた。勿論、Yさんも舐めていた。
『そのクリームは、おじいさんと一緒に食べると、おいしいよね!(どうして?)ソフトクリーム!(だからさ)』   と、ポーがふたりに言った。  ふたりは、無言だった。  駄洒落(だじゃれ)がちょっと高級?すぎたかな、と思ったが、解説はやめた。放った駄洒落に説明は邪道だ。 (でも・・内緒で・・・、おじいさんと=祖父と=ソフト。で、ソフトクリーム!)

 「けいの豆日記ノート」
 あ〜あ  「ソフトクリーム・・・」 よくわからないダジャレに、だれも笑わない。 気がつかないというのか。なんというのか。説明するのは、ダジャレではない。 これは、ナゾナゾなのか・・・(;一_一)・・・  おやじギャグも気がつかないことが多い。 あんまりばかばかしくて、笑う気にもなれなかったりして。 笑いの世界は、きびしいのだ。もっと修行が必要だよ〜

 駅前広場を横切ると、すぐにパラソルが並ぶカフェがあり、その先には陽射しに焼けつく白い砂浜のリベイラ海岸が 爽やかに飛び込んできた。今日から夏の始まりだ。4日前までは冷雨だったのだから。 白い砂浜に寝転ぶ上半身裸体姿の女性が眩しい。小麦肌の乳房が照り輝いていた。 (皆が皆だったら、天国だが・・・)若い女性二人は、本を読みながらの日光浴だったが自然体なのがいい。 周りのひとも、無関心に見えた。 美しく長閑な、昼下がりの情景であった。
 見たな・・・はい。だから、ポーをとめないで。

                              *「地球の歩き方」参照*

終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。 次回をお楽しみに・・・・・・・2009年9月掲載

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 1 リスボン5

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