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(ジャカランダの花・リスボン 5)
Portugal Photo Gallery --- Lisboa 5

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リスボン136
朝日のリスボン


リスボン137
病院の入口

リスボン138
路地は駐車場

リスボン139
レシデンカル

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ビルがキャンパス

リスボン141
メイン道路

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ポルトガルカラー

リスボン143
大使館

リスボン144
花いっぱいの廃墟

リスボン145
青と白

リスボン146
ポンバル侯爵

リスボン147
バス停

リスボン148
ポンバル侯爵広場

リスボン149
バスターミナル

リスボン150
ジャカランダ

リスボン151
広がる紫



リスボン152
ジャカランダの花


リスボン153
ジャカランダの葉

リスボン154
ジャカランダの木

リスボン155
ジャカランダの実



リスボン156
メトロのポンバル


リスボン157
閑散

リスボン158
券売機

リスボン159
日本大使館



リスボン160
小さなスーパー


リスボン161
ソファー

リスボン162
モーニング

リスボン163
フロントのふたり

ちょびっとフランス=====シャルル・ド・ゴール航空



シャルル・ド・ゴール1
JAL


シャルル・ド・ゴール2
ビデオ三昧

シャルル・ド・ゴール3
通路

シャルル・ド・ゴール4
免税店



シャルル・ド・ゴール5
待合室


シャルル・ド・ゴール6
空港入口

シャルル・ド・ゴール7
自動販売機

シャルル・ド・ゴール8
エールフランス



シャルル・ド・ゴール9
機上の夕焼け


シャルル・ド・ゴール10
ピンクの空

シャルル・ド・ゴール11
リスボンの夕暮れ

シャルル・ド・ゴール12
ロストの荷物

☆リスボンの説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
リスボン(ポルトガル語ではリシュボーアと発音する)はヨーロッパ大陸最西端の首都。
大西洋に注ぐテージョ川の河口から12km上流の右岸に位置する。
ギリシア神話の英雄オデュッセウスによって築かれたという。
年間を通して温暖で、「7つの丘の都」と呼ばれる起伏が激しい土地である。
5・6月には、薄紫のジャカランダの花が満開になり、町を彩っている。

「ポー君の旅日記」 ☆ ジャカランダの花のリスボン 5 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕

≪2008紀行文・1≫
    === 序章●こころ凜凜(りんりん)旅立ちの朝・ジャカランダの花 === リスボン5

          《愛しのポルトガル共和国を追い求め8年。一日二万歩の写真取材紀行》

 2年振りで、ポーは旅に出た。6回目のポルトガル写真取材である。 「首都リスボンまで飛行機を乗り継ぎ、よくもまあ20時間余りもかけて行くね」と93歳を過ぎた母に言われる。 ポーは、そのたびに感謝と願いを込めていう。 「帰ってくるまで生きていてね」と。 すると、「死んでも、すぐに帰国出来ないのでしょ」と微笑み、「だから、帰ってくるまで生きてなきゃ〜ね」と母は吐く。 老いた母に言われるのが一番辛いが、必ず、生きて待っていてくれると信じている。 ただ、ポルトガルに行くよと言った時、渋ったのはあのときの1回切りだった。 それは、9月22日にポルトガル初紀行が決まっていたが、アメリカの〈2001年ニューヨーク同時テロ9・11事件〉が あったばかりの11日後であったためだ。

 2ヶ月前、航空券はもとより相棒の写真家が撮る100本ものフィルムを旅行バックの中に収め、 ガイドブック〔地球の歩き方・ポルトガル〕を隅から隅まで何度も読み、心はすでにポルトガルに飛んでいた。 正直、9・11事件はショックが大きすぎた。 でも、行けるのは今しかないと思った。相棒と相談し決行。 その時は無謀(むぼう)だったかも知れない。 しかし、その初旅ですっかりポルトガルに魅せられてしまった。 ポルトガル行きを渋った母を悲しませたのはその時だけだ。 翌年から毎年、撮影取材の旅に出る朝は必ず母の手をにぎった。 母の手は小さく柔らかでいつもあたたかかった。慈愛がこもるその感触に留守を託してきた。親不孝なポーである。 ともあれ、なんど行っても、こころ凜凜ポルトガルであった。 だから、ポーをとめないで。

 「けいの豆日記ノート」
 家族の反対を押し切って、ポルトガルの旅を始めてから、早8年である。 写真展も15回を超えた。 こんなに続くとだれが考えていただろうか。 自分でも不思議である。

          《旅立ちの朝》

 セントレア(中部国際空港)がある伊勢湾上空は厚い雲でおおわれ、ひと雨あってもおかしくない空模様の6月5日(木)の早朝。 旅立ちの朝はいつもあわただしい。大府市に住む相棒の写真家を車で迎えに行き、知多市新舞子駅に舞い戻る。 ポーの家は新舞子駅の裏手、伊勢湾に面した新舞子海岸寄りにあった。 この駅から名鉄の電車に乗れば、10分もかからないでセントレア空港に着く。 その相棒に出発3日前、リスボンから列車に乗って35分ほどの大西洋に面した避暑地カスカイスに住むYさんからメールが届いた。
 『雨が降り続き真冬のような寒さです。厚手の長袖を忘れないように。会うのを楽しみにしています』 ポルトガルの6月は夏日和だと聞いていたので、半袖の下着やシャツを多めに旅行バックに詰めていたが、長袖と防寒服も急きょ追加した。 Yさんは相棒の高校時代の大先輩でポルトガルに30年近くも住み〔ポ日親善交流〕で活躍している。 その彼女(Yさん)に6年前に偶然知り合え、行くたびに会っていただき、しかもレストランでの昼食を準備してくれていた。

 今回の撮影取材旅は22日間。目的はポルトガルの祝祭日にもなっている二つの祭り、リスボンの聖アントニオ祭・ポルトとブラガの聖ジョアン祭を撮る。 そして、アレンテージョ地方の中心地古都エヴォラとその周辺のスペイン国境近くにある町や村を撮る。 今回の旅の、その3分の2は初めての訪問地であった。 ポルトガル共和国の面積は日本の4分の1ほどで、人口も1050万人程とこぶりのEU加盟国で、 言語はポルトガル語、宗教は90パーセント以上がカトリックである。 今までの旅で60か所を越す市町村を撮影取材してきた。 13か所の世界遺産のうち11か所は訪れたが、ポーにはポルトガルの国全体が世界遺産だと思え旅を続けてきた。 その愛しの地に、旅立つ朝であった。

 『あ〜、ユーロに換金するお金を忘れてきた!』 2年前、相棒が雄叫びをあげた、セントレア駅に着いた。 今回は旅の前に、ポーがセントレア構内にある銀行で換金しておいた。 ユーロの高さに愕然とした。手数料込みで1ユーロが178円。 2年前は130円だ。そして、6ヶ月後の12月には1ユーロが110円になった。世界不況が襲った円高である。 相棒の雄叫びが聞こえそうだ。
 『なんでこうなるの!』 68円差は、ケチケチふたり旅にとっては死活問題の脅威であった。 時計の針は7時5分。10時5分出発まで3時間あるが早く着きすぎたわけではない。 相棒がどこで調べてきたのか、ビップル―ムでの飲食無料サービスが相棒のお目当てだ。 条件はゴールドカード加入者でなければ構内にあるその部屋に入れない。 水戸黄門様になくてはならない〈印籠〉みたいなゴールドカードをすでに入手済みだった。 カードと搭乗券を提示して(ポーは付録で)リップル―ムに入った。 落ち着いた室内は意外と利用客が多い。 コーヒーをはじめ、飲み物が中心で、ポーは生ビールを朝から飲んだ。 海苔巻せんべいや甘昆布などをつまみにして。 それだけでリッチな気分になる安上がりなポーである。

 「けいの豆日記ノート」
 2008年の6月から9月は、ユーロが1番高かった時かもしれない。 それプラスに燃料費のガソリン代もかかった。 3つの空港使用料は、もちろんかかる。 なので、普通の航空費より5万円も高くついた旅になってしまった。 この半年後にこんなに安くなるなんて、だれが考えたことだろう。 1年後には、ガソリン代もタダになったのだった。 その分もケチろうと思ったのであった・・・(先が怖い・・・)
 旅の前は、いろいろとネットで調べたりする。 保険のことや、旅費のことは、もちろんである。 少しでも、安く行きたい。 よけいなところにお金をかけたくないのは、当たり前だ。 そこで、考えたのがゴールドカードの入会だった。 年会費が高いので、初年度無料のところを選んだ。 (1年後には、解約のつもりで・・・ごめんね、カード会社さん)  保険が自動的につくし、ビップルームにも入れた。 カードと航空券がないと入れないのだ。たぶん、これが最後かもね。

          《シャルル・ド・ゴール空港》

 パリのシャルル・ド・ゴール空港までの12時間余りは快適なエールフランス航空機内であった。 実は、飛行機はJALで好都合だ。それは、目の前の小ぶりのテレビで好きな番組を選択できるからだ。 ポーは映画を見続けた。あの、黒澤監督のリメイク作品〔用心棒〕など6本の映画をフランスまで無料ビールやワインを飲みながら、満喫の空の旅をした。 乗り物に乗ると、すぐ眠ってしまう筈の相棒も、目の前の映像を見続けていた。 映画好きの相棒は、只(ただ、のことをロハというがこの漢字からきている)で見られる映画を堪能だ。 大型スクリーンで映画を見せたいものだといつも思うポーだったが、飛行機の中で見ればいいと言い、劇場に誘っても、もったいない!という。 そのお金を貯めてポルトガルに行こう、であった。それほどケチケチしてポルトガル写真取材紀行を続けてきた。

 パリ市街北東30キロメートルにあるシャルル・ド・ゴール空港までは11時間半で着いた。 長くて広い国際空港だ。天井から壁面まで開放的な2階はまさにシースールターミナルである。 晴天なら太陽光線が射る温室みたいな空港だ。
 シェパード犬を連れた金髪のパリ娘が笑顔で迫ってきた。麻薬犬だ。ポーはどきりとした。 犬の鼻がピクピクと開閉が激しい。愛用の太田胃酸の粉末がカンの中に詰まっている。それを奪われたら、と思った。 それがないとこれからの旅が不安だ。太田胃酸は、ポーの常備薬なのだった。 麻薬犬は、ちらっと流し目でポーを見た。思わず、右手をにこやかに振った。冷たい眼が泳いで通り過ぎて行った。 ホッ、と息を吐くポーだった。

 ガラス越しの眼下にプラットホームが見え、電車が出て行った。 未だ見たことのないパリ市街まで25分ほどで行けるらしい。 この空港で4時間ほど待機しないとポルトガルに行けない。 その時間をうまく使えば、パリ市街に行ける。でも、その勇気がなかった。 もし、乗り換え便に遅れたら、ポルトガルでの今まで立てたスケジュールがすべてぶっ飛んでしまう。 それでなくても、2年前は出発変更アナウンスを聞き逃し、5分離陸を遅らせた前科がある。 何度となく変更される出発時間を、今回は耳の穴かっぽじって聞かなければならない。 その前科をこれ以上増やしてはならない身であった。 相棒もいつもなら時間さえあれば手造りの折り鶴が両手のなかで舞っているはずであったが、今回は耳をそばたせていた。 だが、身体は小さいが心根は図太い相棒はベンチで首が折れるほどの熟睡中であった。 だから、ポーの耳は魔術のごとく更にでっかくしておかねばならなかった。

 「けいの豆日記ノート」
 フランスの空港というと、おしゃれな感じをうけるが、この空港の場合、あんまりであった。 大きな国際航空ではあるし、設備も整っているのだろうが、 なんといってもトイレの少なさには、がっかりである。 探して、やっと探して見つけたトイレは2つしか個室がなかったり、1つのカギが壊れていたり、 フランス人はトイレにいかないのかと思うほどである。  荷物チェックで、水の類が持ち込み禁止で、取り上げられてしまう。 待合室での数時間、水なしでは、辛い。 なので、自販機で買うことになる。 1番小さく安いミネラル水が2ユーロもする。 コーラやジュースは、3〜4ユーロもする。 ペットボトルなのに高すぎると思う。 売店では、もっと高いのだと思う。 飛行機に乗れば、タダなのに・・・

 夜空に向かって満席の機体がシャルル・ド・ゴール空港の滑走路を息せき切って急上昇していった。 フランスは日本との時間差8時間、リスボン行き19時35分発が遅れて20時15分発になる。時間通りにはならない。 遅れて上昇した機体の小窓からフランスの町あかりが見える。あれが、巴里(パリ)の灯か。 その時、機内の明かりが消えた。乗客は観光客ばかりではない。ネクタイ姿が目立つ。 リスボン行きの最終便は、出張族にとってはひと眠りのベッドであった。

 映画を10時間も楽しんだ相棒は、飛び立つときはすでに眠りに落ちている。 乗り物に乗ったら必ず眠るいつものパターンだ。 2時間半の飛行時間を持参した文庫本「天使と悪魔」(ダン・ブラウン著)にポーは熱中した。 今回の小説の舞台は、ヴァチカン。 ローマだ。著者が書いた「ダ・ヴィンチ・コード」は映画にもなっているが、この作品はその前に発表された作品である。 なぜこの旅に持参したか。 それは、寺院や修道院、教会などにいろいろな謎を与え、それが推理の鍵につながり、心をときめかせる。 ポルトガルの旅にも、その発想が旅を楽しくさせてくれるはずだ。旅はまさに、推理であった。 本のページをめくる時、右手の腕時計が目に入った。 ポルトガルに着いたらフランスとの時間差1時間をさらに戻しておかなければと思う。 前回の旅で1時間戻しておかなかったため、翌朝のモーニングタイムに1時間早く行って待たされ相棒に殴られた苦渋がある。 (日本とポルトガルの時間差は、9時間である)

 相棒との時間差もある。 のんびり者の相棒と、性急気味のポーとの時間差だ。その差で、平均値が保たれていた。 ふたり旅を円滑にしていく術は、平均値を保つヤジロベイの釣り合いにあった。 年の差もある。毎年の写真展での会場で、何十人かの人々に「お父さんですか?」と、聞かれる。 そのたびに「いいえ、相棒です」と答えると「どういう関係なの?」としつこい。 何せわざわざ会場まで来ていただいたお客様だ。笑顔で接しなければならない。 しかし、最近は平然と笑顔で応える。
 「娘さんですか?」「はい、お世話になっています」という。 「そっくりですね!」思わず笑ってしまう。似ているわけがない。 相棒の歳を聞かれてもポーは教えない。微笑んで「写真をお楽しみください」と。 ・・・そんなポーの思いも知らず狭い席で、相棒は夢の中。小窓の外で地平線がまっかに燃えていた。 ヨーロッパ大陸最西端の首都であるリスボン上空3000キロメートルの、雲海の夕焼けであった。 その時、カメラのシャッター音が耳元で鳴り、ポーがのぞく小窓は目覚めた相棒に占領された。

 「けいの豆日記ノート」
 いつもだと、リスボンに着く飛行機からは、キラキラ光る夜景がみえた。 ヨーロッパの6月は、夏時間で日の入りが遅い。 今回、飛行機から、初めて夕焼けが見えた。 うれしかったなあ。 翼がじゃまになってしまったが、写真は、撮れた。 手元には、コンデジ(コンパクトデジタルカメラ)しかなかったが。

          《呪われた旅行バック》

 今まで10回以上も接してきたリスボン。でも、まだほんのさわりしか触れていない。 それが悔しいとポーは思い続けている。 観光ガイド本に載っていないリスボンの路地を歩き続けて来たのに満足してはいない。 観光旅行では得られない、一日二万歩の歩け歩け撮影取材旅だ。 それが、相棒とポーのポルトガルふれあい旅紀行だった。 歩かないと、満足する人物写真が撮れない。歩くことで、素敵な出会いが待っている。 触れ合える人物の〈その今〉が撮れるのだ。 それを信じて、ポルトガルの旅を続けてきた。何人の人々との出会いがあったか。 撮影のたびに手渡した相棒の感謝の〈折り鶴〉が相手の手の掌で何羽舞ったことだろうか。 ポルトガルの各地で2000羽はゆうに飛び立っているに違いない。 その地、その場所での〈折り鶴教室〉も何十回も経験してきた。 あの顔この顔の喜びに弾ける顔が、走馬灯だ。 〈折り鶴教室〉の人々にもその後、その時撮った写真を持って会いに行った。 ひと折ひと折の感触を覚えてくれていた人々に、相棒は素直に泣いた。 それが、もう一つのポルトガル写真取材旅の顔であった。

 ポーは祈った。 入国審査で審査官にポンとパスポートに入国スタンプを押してもらい、手荷物受取場ゲージクレームに向かっていた。 2年前の悪夢が襲ってきたからだ。 ターンテーブルの周りには自分のバックや荷物がはき出され回転盤に乗って来るのを待つ人々がいた。 2年前、ポルトの空港では30分待ったがターンテーブルにポーの旅行バックは姿を現さなかった。 初めての経験に右往左往した苦渋がポーにはある。だから、祈った。 でも、心優しいポーの祈りは天に届かなかった。

 リスボンのターンテーブルでも、30分待つがポーの旅行バックは姿を現さなかった。 まさに、ポーの旅行バックは呪われていた。 ロストバゲージを探し、順番を待つ。今回もロストされた人の列が長い。 30分も待たされカウンターで申し出た。 宿泊ホテルの電話番号を用紙に記入し、セントレア(中部国際空港)でもらった荷物受け渡しの半券を添えた。 右往左往せずに済んだが、バカヤロー!と一言小さな声で呟いていた。 お気の毒ですね、すみませんね、なんていう気持ちが係員からは伝わってこない。 ロストは、日常茶番だぜという〈顔〉であった。ロストされた者は、ご利用客ではなかった。 待っていた列の横を日本人夫婦が通り過ぎた。そして笑顔で言葉をかけてくれた。 不幸な役を仰せつかった仲間意識で会話をした。 神奈川県からのツアーで、仲間もロストされたとほほ笑んだ。こころ広い夫婦であった。 ポーみたいな暴言は決して吐かないだろうと思う。

 だが、この呪われた旅行バックがとんでもない出会いを運んできた。 6ヶ月後の12月、『愛しのポルトガル写真展part15』の会場にわざわざ神奈川県から 名古屋市栄まで見に来てくれたのだ。 深夜のリスボン空港ロストバゲージでの、ほんの5分ほどの出会いだったのに。 相棒とポーは嬉しさで、比嘉さん夫婦の手を握りしめていた。 ポルトガルの旅をしていたからこその、天が与えてくれたご褒美である。 だから、ポーをとめないで。

 「けいの豆日記ノート」
 ロストバックは、ほんとに困る。 日本の飛行機と違って、毎回、たくさんのロストバックがでるらしい。 ロストバックになってしまったら、どんなに叫ぼうが怒ろうが、ないものは、ないのである。 手続きをスムーズにするしかないのが現状だ。
 前回もロストバックになって、2度目ともあって少し慣れてきた。 ホテルに届けてくれる手続きもなんとかできた。 ロストすることも考えてホテルは、2泊したほうがいいと思う。 次の日に届けてくれる場所が、移動先のホテルだとまたややこしいことになる。 ロストバックの3回目がないことを願うばかりである。

            《深夜のタクシー》

 飛行機を降りてから長い通路を歩き、トイレで用を足し、荷物が出てこなかったターンテーブルで30分、 ロストバゲーンで40分ほど待ち時間があり登録を済ませ、タクシー待ちもあって空港を出るまで2時間も費やしていた。 6回目の、愛しのポルトガルにやっとこ着いたポーは空港建物を出て深夜のリスボンの空気を吸い込んだ。 夏の始まりだというのに冷たい空気に戦慄(わなな)いた。 リスボンのタクシーは〈スピード狂〉として知られている。深夜のタクシーは特に暴走気味であった。 のんびり車窓の風景を楽しむ余裕はない。車中のどこかにしっかとつかまっていなければ不安だ。 ポーは思わず、叫ぶ。
 『もっと、ゆっくり走って、くれー!』 勿論、日本語だ。叫びが届いたのか、スピードが落ちた。 スピード狂の中年運転手であったがメーターは倒して走ってくれていた。 深夜タクシーはメーターを倒さない運転手が多いと聞いていたが、良心的なおじさんであった。

 「けいの豆日記ノート」
 いつもは、ホテルの予約は、日本からファックスでしていた。 ガイド本の中から、安くて、カードが使えてファックスがあるホテルを探す。 普通、旅券を買ってから、ホテルを予約するのだが、今回の旅は、逆であった。 お祭りということもあって、その時期は、混むことを予想して、ホテルがとれたら、旅券を買うことにした。 ホテルのキャンセルはできるが、旅券のキャンセルは無料ではできない。 あとで、知ったのだが、お祭りといっても特に混雑するほどでもなかった。

 相棒がインターネットで探しだし予約しておいた宿、【レジデンシャル・モザンビーケ】には 空港からタクシーで20分ほど、深夜の1時半に着いた。 3泊するリスボンのホテルは、淋しげな明かりに照らされて待っていた。 石畳がくだる坂の歩道に、右に段差幅が広がる石段を5段登って、ガラス戸の入り口にあるブザーを相棒が鳴らした。 狭いカウンターから黒人の青年が顔をあげるのが見えた。寝ていたのかも知れない。 カチャ!鍵が開く。安宿はいつものことだが、ポーの背には不安が走る。
 だが、相棒は不安をおくびもみせない。 真夜中なのに『ボンディーア!(おはよう!)』と明るい。 そして、日本から来た〈ケイコ〉!と青年に告げた。 青年は「オブリガード!(ありがとう)」と真っ白い歯の笑顔だ。 (なにが、オハヨウだ。でも来ないと思った予約の日本人が約束通り来た、これでゆっくり眠れる、ありがとう、さまさま、だ) パスポートの確認があって、鍵を渡され4階の部屋に、狭いエレベーターで向かった。 部屋は思いのほか広かった。旅行バックをロストされたポーは、着替えもないのでそのままベッドに倒れ込んだ。 眠る前に、右手の腕時計の針を1時間戻していた。

 「けいの豆日記ノート」
 いつもとちがってファックスでなく、ネットから予約したホテルだった。 ネットにでているホテルは、高いホテルが多い。 その中で、限定2組半額というキャッチフレーズにつられてしまった。 80ユーロが40ユーロになっていた。 実際、ほかの安いホテルより、ずっと安かった。
 リスボンは、ポルトガルに行くたびに泊まる場所だ。 だから、ホテルも毎回かえることにしている。 ホテルの場所によって、電車やバスまでの行き帰りの道がかわり、違った風景が見れるからだ。 外観や値段などでわからない、どのホテルがいいのかもよくわかる。

          《リスボンの朝》

 翌朝6月6日(金)、腹が減ってポーは目が覚めた。 昨夜は、愛知県の新舞子の自宅で目覚めてから30時間以上もリスボンの宿に着くまで一睡もせず、 呪われた旅行バックがロストされたために着替えもなく、風呂も入らず、 底冷えのする部屋で着のみ着のままベッドに倒れ込み眠った。 目覚めは、腹が鳴っての目覚まし時計だった。右手の腕時計は6時半。窓の外はまだ薄暗い。 目が覚めたら二度寝が出来ないポーは8時のモーニングタイムまで、今回の旅に持参した文庫本 「天使と悪魔」(ダン・ブラウン著)の続きを読もうかとベッドから着のみ着のままの姿で起きあがった。
 その時、赤い帽子をかぶり『ポー、行くよ!』と首にカメラを提げた相棒が声をかけてきた。 ポーもそうだが、相棒も時差惚け(時差のため生理的リズムがずれて体調が狂うこと)を知らぬ体質だったし、 むしろ過去に9時間戻った時差感覚がなぜか滞在時間が長くなったようで嬉しかった。

 宿の外に出た。明け方の空気は冷えていた。もこもこ姿の相棒は温かそうだが、ポーには着替えがない。
 『冷えるねー!今日じゅうに旅行バック届けてくれるかな?』 『のんびりしているからね。でも、モーニングまで歩いてくれば、暖かくなるよ』 相棒らしい心あたたまる励ましの?返事である。 昨夜は気がつかなかったが宿の前にバス停があり、そこから路面電車の線路がとびとびに切断され、坂下に向かって延びていた。 何年か前まではここもリスボン名物の路面電車が坂道を喘ぎながら登っていたに違いない。 でも、早朝のせいか何となく寂しい街並みであった。 石畳の坂道を下りながらポーは暗い空を仰ぎ見た。
 『今日は晴天になるよ!』 『ポーの予報は当たるからね』 相棒は街灯に浮かぶ線路を撮っていた。 焼きたてパンの香りが流れてきた。 間口の狭いカフェのカウンターでは通勤客が立ったまま並び、新聞を読みながらパンをうまそうに食べている。 ポーの腹が鳴った。 ポルトガルの人々も働き者だ。 朝食は家で食べないでカフェで済ますと聞いていたが本当のようだ。

 もう街は、起きていた。 朝の散策でポーは身体を温めた。坂を下った分だけ上って来なければならないからだ。リスボンは坂だらけの町である。 撮影をするというより2年振りの歩きにくい石畳ばかりの首都リスボン足慣らしの1時間であった。 ほとんどの宿で無料モーニングが食べられる。宿賃の中に含まれているシステムだ。 高級ホテルでは高級ホテル並みに豪華だが、安宿はいたって簡素だ。パンにコーヒー、牛乳、ジュース、旨くないハムにチーズ。 オレンジなどの果物が出る宿もたまにある。その時はなぜか得をした気持ちにさせる。 ポーはパン2個とオレンジジュース2杯、チーズ3枚で腹を満たした。相棒はポーの倍は食べた。 しかも、持参した空ペットボトルにオレンジジュースをなみなみと・・・。 せこいがケチケチ旅の知恵。神様お許しを、アーメン! だから、相棒もとめないで。

 「けいの豆日記ノート」
 無料のモーニングは、楽しみである。 グルメでも美食家でもないので、食べれれば、なんでも大丈夫である。 (たまに食べれないものもある・・・)  ミルクたっぷりのコーヒーを2杯は飲む。 パンは、やわらかそうなものを選ぶ。 せこいホテルは、古いパンと新しいパンがいっしょになっているので注意だ。 バターだけをつけるようにしている。 以前は、ジャムもたっぷりつけていたが、これが、脂肪の元になるとしみじみ感じてやめにした。 オレンジジュースは今 飲めないので、後で飲むのだ。(いいわけ・・・)

          《ジャカランダの花》

 青空から朝日が射す石畳を下っていた。 ガガガッと、賑やかに自動車のタイヤが石畳の数だけ拾った音を響かせ上って来る。 ガイド本の地図を見ていた相棒が朝の散策より一筋山の手の道を選んだ。 リスボンを代表するメインストリート〈リベルダーデ通り〉に行き、その通りにある〈在ポルトガル日本大使館〉で挨拶しておきたい人がいた。 ポーはリュックを背負いメモ帳を手に、相棒は肩にカメラバックを掛け、ニコン一眼レフカメラを首から提げて坂道を下っていた。 道幅も広く店も多く宿の前の坂道とは雰囲気が違う。ホテルの建物も朝日を浴びて華やかに見える。
 SAKURAと朱色に浮かび上がる看板が気を引いた。寿司店だった。 中を覗いてみたかったが開店前で閉まっていた。 ポルトガルでも寿司店が多くなったとポルト市に住むYUKOさん(30年在住の日本からの花嫁さん)からも聞いていた。 日本人の握り職人がいない寿司屋が多いそうだ。一度友達に連れて行かれたが二度と行きたくないと言っていた。   小さなスーパーマーケットに入って行った相棒が、顔面笑みをつくり出てきた。
 『夕食御用達の基地だね、宿から近くてありがたいね、ポー』  今回の旅も、夕食はレストランで食べることが叶わぬと知らされた笑顔であった。

 青くて広い空が目の前に広がった。 その広い空間に、大理石の白くて高い塔が天を突き、その上にライオンを従えた人物像があり、 その眼下には木々に覆われたリベルダーデ通りが広がっている。 その像〈ポンバル侯爵像〉が朝日を浴びて浮き上がっていた。 ポンバル侯爵はポルトガルを代表する政治家である。 彼がいなかったら今日のリスボンはなかったかも知れないとさえいわれている。 1755年のリスボン大地震はポルトガルの生死に等しかった。 リスボン再建など多くの分野で近代ポルトガルの基礎を築いた人物がポンバル侯爵であった。 その銅像がテージョ川まで広がるリスボンの町を見下ろしていた。 ポンバル侯爵像の周りはロータリー広場になっており、観光バスや自動車が忙しく行き交っている。

 『ポー、あの花は、ジャカランダじゃないかな?!』  広場の反対側に桜が咲いているような色合いの並木が見えた。 相棒が探し求めていた6月には咲くジャカランダの花かも知れない。 今までにポルトガルに来た季節は、1月2月4月5月9月10月11月と比較的航空料金や宿泊代が安い時期が多く、 6月からの夏季は初めてである。そのため、ジャカランダの花には縁遠かった。
 車の多いロータリーをどう渡っていけばいいのか迷う。横断歩道も見当たらない。 広いロータリーの円周をぐるり回っていけば反対側に行けるであろうが、遠すぎる。 その時、若い男が車をぬって飛び石的に渡って行く姿を見た。 でも、危険すぎる。
 『地下道があるはずよ!』  相棒の判断は正しかった。地下に潜るゲートを発見。 この広場の下には地下鉄マルケス・デ・ポンバル駅があるはずだと相棒がいう。 記憶力がいい。特に地理感覚は抜群だった。 一度通った道は忘れない。その犬なみの臭覚記憶で何度もポーは助かっていた。 なのに、ポルトガル語会話に対する記憶力までは配線がつながっていないようだ。

 その長い地下道を相棒の勘で進む。 通勤者群とすれ違うが先を急ぐ慌ただしさがない。 腕時計を見る。 10時。長閑(のどか)な歩調だ。地上に出る階段を上がる。 相棒が何度も夢に見たというジャカランダの花が満開で迫ってきた。 青空の中で咲き乱れるジャカランダの花は、遠目だと桜のように見える。 しかし、近くで見ると紫色だ。花びらは筒状で芯が白い。葉はシダのよう。 聞きかじりだがジャカランダのことを南米ではキリモドキ(桐擬き)、ハワイでは紫の桜と日本から移民した人々は呼んでいるという。 確かに花びらの形状は桐の花に似ていた。
 桜もそうだがジャカランダも群で見る方がいいとポーは思う。 桜並木のようにジャカランダ並木が公園の奥までつながっていた。 緑の芝生の上にも咲いていた。 落下した紫ピンク色の花びらを敷き詰めたような絨毯に座り込み、相棒はシャターを切っていた。 勿論、満面の笑みで。通りがかる人々が足をとめ相棒の姿に微笑みかける。
 『(色がついたら落ちないわよ!)』と、おばさん。  『オブリガ―ダ!ありがとう!』と、相棒。  ジャカランダの花は満開時を過ぎるところであった。

 「けいの豆日記ノート」
 今回の旅の目的のひとつが、ジャカランダの花を見ることであった。 花と祭りは、その時期に行かないと会えない。 前回のマデイラ島のフンシャルでジャカランダの木を見た。 メイン通りがジャカランダの並木道になっていた。 ジャカランダの葉は、シダの葉のようである。 満開の時期の薄紫の花いっぱいの通りは、きれいなのだろうなあ。
 ポンパル伯爵像の向こうに薄紫の木が見えた。 すぐにジャカランダだと思った。 満開を過ぎたくらいで花びらがたくさん落ちていた。 今、撮らないと時期をすぎてしまう。 実際、1週間後に見たときには、すでに半分以上の花が落ちていた。

          《在ポルトガル日本大使館》

 在ポルトガル日本大使館はリベルダーデ通りの坂道を下る途中のビル5階にある。 ビルの受け付けカウンターでパスポートを提出し行き先を告げ、エレベーターを降りると大使館の事務所に 中に入る前にボディ―チェックがあり、カメラは一時没収され荷物は感知器に通される。 その役目を終えるとおじさんが二カッと笑み、お元気でしたかと聞いてきた。 7年前はじめて会ったときは9・11ニューヨーク同時テロ事件があった翌年だったので顔つきが厳しかった。 背の高い青年が笑顔で近寄って来た。
 『お世話になっています。Mです。義父から電話がありました』  毎年12月に「名古屋市民ギャラリー栄」で開催している相棒の写真展に来ていただくご夫婦がいる。 昨年暮れにも見えて、娘婿がポルトガルの大使館に昨年赴任しているからリスボンに行ったら会いに行ってくださいと声をかけてくれた。 その婿殿がMさんである。笑顔の似合う人だった。今回の旅の目的などを話し、資料などをもらう。 帰りがけに相棒はポーのリックから柿の種とゴマ煎餅を出し渡した。嬉しそうに照れながら受けてくれた。 帰り際、あのおじさんが言う。
 『指折り数えてみたら、ここに見えたのは、今回で5回目になるのですね〜、お会いできてうれしかったですよ』 相棒とポーも、おじさんに微笑んだ。  おじさんの髪は白さを増していた。

                              *「地球の歩き方」参照*

終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。 次回をお楽しみに・・・・・・・2009年8月掲載

掲載済み関連写真 === ≪ポルトガル写真集≫ リスボン1〜4
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