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☆シントラ3の説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
エストリルからリベイラ海岸に沿って西へ約15km、古くからの漁師町である。
19世紀に王室一家の避暑地となってから急激な変化をつげて、有名なリゾート地となった。
ゴシック様式で施された王族の別邸のレガレイラ宮殿が古城のように建っている。
イスラム、ゴシック、ルネッサンス、マヌエルなど各様式の寄せ集めのペーナ宮殿も建っている。
標高500mの山頂からの展望は、大西洋まで見渡すことができる。
「ポー君の旅日記」 ☆ レガレイラ宮殿のシントラ3 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕 ≪2008紀行文・5≫
《エキセントリックなキンタ・ダ・レガレイラ》 その建物は、急に目の前に現れた。 一瞬にして建物に吸い込まれそうな衝撃をポーは受けた。 宮殿としては決して大きな建物ではなかったが、摩訶不思議な魅力で迫って来る。 まるで、このまま宮崎駿監督がアニメーション映画『ハウルの動く城』で描いたあの館のように、 いまにも動き出すのではないかとさえ思えた。 標高500メートル以上あるシントラは、ポルトガルが誇る大航海時代の昔から歴史の表舞台にも登場してきた王家の避暑地であり、 貴族や富豪の別荘地が森林の中に点在している地である。 道はさらに狭くなった。レプブリカ広場から15分も歩けば目的地に着くはずだ。 道の左側に大きなアズレージョ(青いタイル)の中央に水飲場があった。シントラ山系から湧き出る水に違いない。 勢いよくは噴き出してはいないが、かつて猟に出かけた貴族が飲んでいたかも知れない。 先を歩いていた相棒が、叫んだ。(よく叫んでくれる) 『あれよ!レガレイラ宮殿だよ!すご~~い!綺麗だ、ね~ェ』 2本の煙突がある国立シントラ王宮の建物には叫ばなかった相棒だったが、叫んだ。 急に開けた青空には白い雲が流れ、そこにサロンで美しく日焼けしたような色彩の石積み建物が凛(りん)として、 一分(いちぶん)の隙もないたたずまいで立体的にデンと存在感充分に浮かんで見える。 相棒のカメラがあっちで、こっちで何回となく歓喜で泣いていた。 「けいの豆日記ノート」 〈キンタ・ダ・レガレイラ〉のキンタとは、持参のコンパクト「ポルトガル語辞典」では、畑、農場、別荘とある。 かつての貴族たちが所有していた誇大な庭園であり、建物は宮殿に見えた。 近づくと建物がほとんど隠れるほどの石積みの厚く高い塀で囲まれていた。 1ヶ所鉄扉で覆われた入り口がある。鉄扉の中にさらに鉄扉があって、そこから中に入ると、 小さな掘立小屋があり入館料一人6ユーロを払う。(細かいがガイド本には5ユーロ) まず、目の前にある館(宮殿)に入ることにした。なぜか、ポーの心臓の音が速くなったようだ。 わくわく、していた。 この館と庭園にあるものは、すべてに意味が込められ作られていると聞いていた。 つまり、意味なく造られものは何一つない、というのだ。この一言を聞いてシントラを再度訪れてみたいとポーは思ったのだった。 だから、この建物を初めて見たときは期待感で、震え鼓動を速めた。 情報をくれたのは、首都リスボンから北300キロメートルにあるポルトガルの第2都市ポルトに住むYUKOさんだ。 その、ポルトに住むナイスガイに嫁いで30年になる弘前市生まれの才女には、今回の旅でも再度会う約束をしている。 その彼女からは、何が謎なのかは聞いていない。 小説「ダ・ヴィンチ・コード」(ダン・ブラウン著)で一躍脚光を浴びた〔テンプル騎士団〕や〔フリーメーソン〕に興味を抱き、 時間を見てはポルトガル各地を医師の夫を運転手として飛び回っている。 3ヶ月後の10月には、ここへ来るとは聞いていた。 この館と庭園に彼女は、何かで知り何かを感じとったのかも知れない。 〈キンタ・ダ・レガレイラ〉は、12世紀に王族の別邸であったのを1840年に裕福だったレガレイラ男爵が手に入れ、 その名が残ったという。12世紀から19世紀までの間には所有者が点々と変わっていったことは想像できる。 そのレガレイラ男爵も1893年に富豪モンテイロに売却している。 そのモンテイロが20世紀初めにイタリアの建築家ルイジ・マニ―二と共に改築。 それが現在残っている姿だと言われているのだ。 このふたりが〈キンタ・ダ・レガレイラ〉に謎を刻んだとされているようである。 まるで宝探しみたいであったが、ポーの知識と手薄なポルトガル語要領では館内の説明パネルを解読できなかった。 でも、館の中を一時間15分も何度も歩きまわり立ち止まり、相棒のカメラのシャター音を聞きながらポーは推理を働かせた。 内部が絢爛豪華な宮殿というイメージではなかったが、装飾の一つ一つが凝っていて品格があり興味をひく。 YUKOさんの魔法の言葉を聞いていたためだからでもない。 室内の明かりも展示のための照明ではなく、当時の生活空間をそのままに体験させてくれているような親切さがあった。 館の中は昼間でも暗かったに違いない。その暗さの中に浮かんで見える装飾は何かを語りかけてくる雰囲気と気品に満ちている。 見ていて飽きない。 しかし・・・ポーには、推理の入り口にも到達できなかった。でも、興奮だけは尾を引いた。 歩き回った感触、そして見たものを羅列しかできないが・・・・。 「けいの豆日記ノート」 《ミステリーワールド》 館(やかた)のどの外窓枠には、兎や鷹などの動物の姿がひっそり忍んだ不思議な細工が施され、その飾り付けは凝りに凝っていた。 今までポルトガルの各地でも、いろいろな建物の飾り窓細工を見て来たが、ここの細工にはひと工夫された印象が残った。 トリズモ(観光案内所)でもらった資料によると〈キンタ・ダ・レガレイラ〉は当時、「富豪モンテイロの館」と呼ばれていて、 彼は買った館に資産をつぎ込んで改造改築したようだ。 と言っても、前の姿と比較はできないので資料を信じるしかない。 ゴシック様式のバルコニーから館内に入った。 館内は総体的に薄暗い。明かりは種々の形をした窓からの自然光であり、区切られた部屋部屋は薄明かりの照明があった。 白い壁に真っ赤な扉。木製の飾り手摺の階段を上ると、鎌倉彫みたいな装飾天井。 太宰治の生まれた館、斜陽館の2階に行く手摺と天井をポーは思い出していた。 次の間に入ると大きなモノクロ写真で男の盛装した顔が飾られている。 富豪モンテイロか。内扉の取手(ノブ)は、長い舌を出し丸い打ち輪をくわえた二頭のライオンの顔である。 狭い通路の先にまた階段がある。その階段の壁は、釣鐘草の形をしたガラス照明器で朱色に浮かぶ。 なぜ、不気味な朱色照明なのかポーはドキッとしたが、説明はできない。 その階段の上で相棒が階下にカメラを向けていた。何を撮ったのだろうか。 窓からの外光が射し込んでくる狭い通路を歩いて行くと、薄暗い部屋がある。 周りからの音ひとつない静寂さ。足がちょっとすくむ。相棒の姿を目で追ったがいない。 フラシュ撮影嫌いな相棒は、部屋が暗すぎるので撮影不能と決めて先に進んだに違いない。・・・薄暗い部屋に入った。 壁に吊るされたデスマスクが飛び込んできた。 目を伏せたおかっぱ少女の白い顔の周りには、縄目の太いロープが飾り風に囲んでいる。 あまり見たくないとポーは思う。さらに、三角形の中に片目が見開かれた白い焼き物が吊るされていた。 奇妙なオブジェにポーの頭に小さなランプが灯った。 ・・・2年前の2006年10月に、ポルトのドウロ川沿いにあるレストランでYUKOさんに初めてお会いし、 昼食をご馳走していただいた時、彼女が語った内容が甦って来たのだ。 そのとき彼女は、初めて会ったあいさつの会話の後、ポーに言った。 ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」を、読んだ? ポーは読んだ、と答えた。 それが、彼女との本格的な屈託のない語りのきっかけだった。 YUKOさんは30年前アメリカにいたとき、アメリカ1ドル紙幣の裏側に奇妙なデザインで印刷されているのが気になった。 アメリカ紙幣なのになぜかピラミッド。 それも、そのピラミッドの先端が更に小さな三角形になっていて、その中に人間の片目が描かれていた。 これは、何?何を意味しているの?と思い、調べた~ それは、《万物を見通す英知の目》という意味で、《フリーメーソンのシンボリ》だと知る。 更に、初代大統領ジョージ・ワシントンは薔薇十字団の会員だと言われている、と友人から聞いたという。 中世のヨーロッパでは、いくつもの秘密結社が生まれ、その一つが薔薇十字団でありフリーメーソンリー(リーがつくと団体名になる) である、と言われている。 ポーは、魔法の言葉のようにその時初めてYUKOさんから聞いた・・・。 そのデザインが目の前にあった。 背筋がピクッと震える。 この館を買い改築した富豪モンテイロは何をこの館に残したかったのか?更にポーは、気づく。 その三角形の下に、十字架のマークが潜み薄暗い壁に浮かんでいた。 十字架のマークは、テンプル騎士団の十字架マークに似ているとポーは思った。 修道士でありながら騎士でもあるテンプル騎士団は、のちにフリーメーソンになったと聞く。 フリーメーソンとは〔自由な石工〕を意味しているらしい。 テンプル騎士はユダヤやイスラムで高度な石造術をエルサレムで学び、ヨーロッパに持ち帰って建築レベルを上げたという。 フリーメーソンリーが活動を始めたのは17世紀だったと、「ダ・ヴィンチの暗号99の謎・福知怜著・二見書房」で知った。 友、YUKOさんが追い求めている推理の場に〈キンタ・ダ・レガレイラ〉を選んだのには、 ここに、何かを感じ取ったからに違いない。 ポーの勝手な推理に彼女は声をあげて笑ってくれるだろう。 「けいの豆日記ノート」 《迷路の庭園》 窓から外を眺めると広大な敷地だと知らされた。遥か先の山の上に見える建物は、ぺナ宮殿だった。 眼下でTVクルーが番組制作をしているのが見える。人数が10人くらいいるからニュース取材ではない。 言葉が判れば、ここから飛んで下りどんな番組かを聞きたかった。 そして、いつ放送するかを聞き出し、YUKOさんに知らせればもしかしたら役に立つかと思ったのだ。 でも、やめた。撮影現場でごちょごちょ聞かれるのは閉口だった。 時間に追われ、天候に追われての仕事だと知っていた。 広大な庭園は美しく、迷路のようであった。 気づけば2時間も歩き回っていた。 館に来るまでの道より広い通路や広場があり、小道の両サイドにはピンクのアジサイが咲き乱れている。 日本と同じ時期に咲いているため、ポルトガルにいることを忘れてしまいそうだった。 相棒の赤い目印の帽子が瞬間移動しているように動きまわっていた。 シャッターの音を残しながらだ。室内撮影では、フラッシュ撮影が嫌いなため苦労したに違いない。 その反動で庭園の撮影では息を吹き返したようだった。 通路より一段高いところから旨そうな香りが漂ってきた。腕時計は1時半を過ぎていた。 庭園の中に売店風レストランの建物があり、テーブルが20ヶ所もある広さだった。 でも、客は1組しかいない。 観光客は先を急ぐ周遊バス利用スケジュールだ。 ここまで入り込んで来る時間はない。 目の前に凛々(りり)しく館の姿が眺められるロケーションがいい。 地球儀や縄目が施されたマヌエル様式の尖塔が館から突き出していた。 館の窓から覗いた時に見てはいたが、角度を変えて見ると館の姿が異様さを増す。 相棒もポーと同じ感触を得ていた。 カメラも歓喜している軽やかな音色だった。 ポルトガル産サグレスのグラス生ビールと7ナップが同じ2ユーロだった。 館内は町場とは違い、ちょっとばかし高い。メニューを見たら料理も高い。 相棒は、我慢して!と笑顔で言って、1品の昼飯を頼んだ。8ユーロもした。 3分の2を相棒に食べていただき、その分の1をポーが頂いた。 それで満足なポーの腹だった。腰につけた万歩計を見ると、2万歩にあと15歩だった。 広大な庭園には、垂れ下がったロープが張ってある地区がいくつかあったが、無視して入り込み、 その度にその施設の服装をした人が飛んできて、「ノォン!」と言った。例えば、鞭を持って走り寄る乗馬服の青年。 例えば、転がり出てきた太ったおばさん。 なぜ、いけないかの説明は判らず。だめなら、進入禁止の看板があれば納得するのにと、ポーは思う。 「けいの豆日記ノート」 庭園は見どころ満載ではあった。相棒は高い所からの景観が好きだった。 高い所に登るのは平気だったが、下りには弱かった。手摺がないと、降りてこられない弱点はあった。 〈キンタ・ダ・レガレイラ〉の庭園には、いくつもの塔があった。 塔は、天体観測を装っているが、実は当時もご法度の《錬金術》がある地下に通じる誤魔化しの塔だという説もある。 その塔のてっぺんで相棒が手を喜々として振っていた。 レガレイラの庭園には、そのための地下迷路があったのではないかという説も耳にしている。 その中でも[異端の塔]は、庭園の通路の中でもひときわ美しい石積みの塔だった。 ここでも、相棒は喜々として登り、笑みいっぱいの晴れ晴れとした表情で手を振ってくれた。 この塔も、地下の隠された世界とつながっているとしたら・・・。 「そんなのっ、関係ない!関係ない!」と、握りこぶしで大地を打ち砕くアクションをすれば、芸能界は生きていけるものだが・・・。 夢と現実、現実と作為、作為と夢。これを、ロマンと呼べば気は楽になる。 「けいの豆日記ノート」 《ぺナ宮殿》 キンタ・ダ・レガレイラからレプブリカ広場にもどって、相棒は決断した。 『ポー、ぺナ宮殿に行って、カスカイスの町や大西洋を見てみようか』 もらった資料の、周遊バスの時刻表を眺めながら、3時50分発がトリズモ(観光案内所)前のバス停から出ると言う。 25分ほどでぺナ宮殿に入る鉄柵前に着いた。 入館料ひとり11ユーロ。 『高~い!7年前より3倍もだよ!帰るわけにもいかないしな~あ』 相棒の、なげき節だった。鉄柵の中に入ると若草色の専用バスが待っていた。片道2ユーロだった。 『フ~~ウ』相棒が深くため息を吐いた。歩けば20分はかかる坂道だ。7分、乗った。 乗客15人ほどを下すと、2ユーロの若草色専用バスは帰る客を吸い込み急坂を下って行った。 「けいの豆日記ノート」 坂道を登ると、ぺナ宮殿の色とりどりな建物が青空いっぱいに広がって見えた。 この宮殿は1910年王政が廃止されるまで王族が生活していたという。 ガイド本には、1850年に完成し、イスラム、ゴシック、ルネッサンス、マヌエルなどの様式が寄せあつめた宮殿だとある。 それぞれの建築様式を理解していないと楽しくないはずなのに、なぜか見あきない。 どの角度から見ても立体的に色彩的に装飾的に楽しめる。まるで、ミニ・ディズニーランドだ、とポーは思う。 相棒の姿を見失った。人は多いし写し手としては堪らない世界だ。慌てることはない。
室内には入らないはずだ。だから、屋外の広場を見渡せるところで赤い帽子を探せばいい。
赤い帽子をかぶっている観光客はめったにいないからだ。(赤い帽子は撮影時の必需帽である)
いたいた!若いカップルを赤い帽子が撮っていた。 リスボン大学生のカップルは何度も振り返り、笑顔で手を振って去っていく。 見送る相棒の目頭が歓喜で光っていた。 標高529メートルのぺナ宮殿からの展望は素晴らしい。 きのう歩き回ったカスカイスやエストリルの町の先に大西洋が見えた。 帰りは2ユーロが惜しく、歩いて下った。5時50分発の周遊バスでシントラ駅に戻る。 「けいの豆日記ノート」 《目的の一つ路面電車で大西洋ヘ》 さて、今回の旅の目的のひとつ、シントラから路面電車に乗って大西洋のマサス海岸までの45分の旅が待っていた。 シントラ駅から今度は右手に向かって歩く。6時を過ぎていたが夜は8時を過ぎても明るい。 急ぐことはない。黄色い車輪の馬車が観光客を乗せ、5台もひずめの音を響かせ通り過ぎて行く。 相棒のカメラが鳴る。こっちまで走って来るんだあ、料金も高いだろうなあと相棒は吐く。 10分も歩いた左手に線路を発見。単線の線路はあったが停留場らしものがないし、人影もなく閑散としていた。 金~日曜日のみ、運行しているとガイド本には書いてある。 今日は土曜日。路面電車に乗ろうと土曜日の今日をスケジュールに組み込んだ。なのに、だ。 相棒は怒っていた。どうして、どうして?と呪文を吐きながら、アイスクリーム屋のおばさんに聞く。 あ~、走ってないってさ、あ~、どうして?なぜ、走ってないんだろう?楽しみしていた分だけ、その反動は大きい。 ポーは、ガイド本に載っている路面電車の写真を見せる。しかし、おばさんは、ナォン(知らない)と首を振る。 また線路のあるところに戻る。線路脇にトタン塀がある。もしかしたら工事中なのかもしれない。 塀の中を覗いてみたが何もない。 『ポー、あきらめよう!探したのにないんだから・・・。あきら~めた!』 歌うように相棒は、捜査を打ち切った。頭を切り替えたら、つぎの行動が速かった。 『リスボンに帰って、明日の準備をしよっと!』 シントラ駅に戻り、トリズモ(観光案内所)で聞くと、土曜日は休みで、それも途中までしか走っていないとのことだった。 大西洋の海までは、走ってはいないのだった。 7時15分の電車にのった。シントラからリスボンのロシオ駅まで45分、一人1.65ユーロ。 ポルトガルの電車は安かった。 「けいの豆日記ノート」 夕飯はなかった。 歩き疲れ、考え疲れ、早々眠ってしまった。 宿の前の坂道がやかましく起こされた。腕時計を見ると10時前。 5階の部屋の窓を開けると、ぷあぷあと車のフォ~ンを鳴らし、ポルトガル国旗を窓から乗り出して振りながら、 ポルトガル国歌を歌う声が闇夜に響き渡っていた。5台や6台ではない。何十台もだ。 ポルトガルがAグループで今夜から、準々決勝進出をかけた戦いがはじまったのだ。すっかり忘れていた。 この騒ぎでは、ポルトガルが対戦相手のトルコに勝ったに違いない。急いでテレビをつけた。 真っ赤なユニホームのポルトガルが2-0で勝ったようだ。繰り返しゴールを映し出す。ぺぺの姿はわかった。 ゴールに蹴り込む赤い姿が舞っていた。 ますます、ポルトガルはフットボール騒ぎの日々が続く。おちおち眠れぬ日々が続くようだ。 朱に交われば赤くなる。ポーも、交わって燃えてきた。 だから、ポルトガルの勢いも、とめないで。 *「地球の歩き方」参照*
終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。 次回をお楽しみに・・・・・・・2009年12月掲載 |
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2008-2話![]() Cascais 2 |
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