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(わらぶき屋根のサンタナ)
Portugal Photo Gallery --- Santana

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サンタナ1
サンタナの町

サンタナ2
サンタナのトリズモ

サンタナ3
記念撮影

サンタナ4
三角屋根

サンタナ5
見せ部屋

サンタナ6
案内人

サンタナ7
とんがり屋根

サンタナ8
るす番

サンタナ9
今風三角屋根

サンタナ10
壊れた屋根

サンタナ11
町並み

サンタナ12
公園

サンタナ13
バスで会ったふたり

サンタナ14
白い雲

サンタナ15
海の見える高台

フンシャルの午後

フンシャル25
波模様

フンシャル26
ゲーム

フンシャル27
遊び仲間

フンシャル28
校庭

フンシャル29
早朝の掃除

フンシャル30
焼き栗屋

フンシャル31
夜も営業

フンシャル32
焼き栗

フンシャル33
語る

フンシャル34
ワインナリー

フンシャル35
ビール大好き

フンシャル36
靴屋さん

フンシャル37
皮靴職人

フンシャル38
名物の布

フンシャル39
カンカン帽

フンシャル40
たいくつ

フンシャル41
3人組

フンシャル42
セシリア

フンシャル88
4つ星ホテル

フンシャル89
民族衣装

フンシャル90
民族人形



≪マデイラ島の地図≫

☆サンタナの説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
フンシャルから、バスで1時間半ほどで、坂道を登り山岳地帯を抜けるとサンタナだ。
マデイラ島の北側の、標高400mの広々とした町である。
マデイラの伝統的なとんがり屋根の家がいくつか残っている。

「ポー君の旅日記」 ☆ わらぶき屋根のサンタナ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕

≪2006紀行文・20≫
    === 第六章●マデイラ島フンシャル起点の旅D === サンタナ

          《夜明け前、大西洋に浮かぶ満月を見た》

 朝5時に目が覚めた。3階にある部屋のベランダに出て、まだ暗い夜明 け前の空を見る。名古屋ではなかなか見られない満天の星座が天空を飾っ ていた。それにオレンジ色の周りが青みがかった満月が、ぽっかりと大西 洋の西の空に悠然と浮かぶ。その満月の中に描かれている月面の姿は、少 年期から見なれていた姿ではなかった。ウサギが餅を突いている様にはど うしても見えない。
 それはいいとしても日本で見てきた月には、夢物語さ や厳粛さ、神秘さを絵本や母の語りなどから子供の時から教え込まれ、感 じさせられてきたが、南国の満月にはなぜか不思議な雰囲気が宿り迫って いた。まるでパリのファッションショウに初めて器用されたヘヤ−デザイ ナーの初仕事のような緊張感と、祭りの後のイルミネーションみたいに華 やかなショウを終え、それぞれの満足感を引きずって丘の向こうに沈んで いくそんな満月だと、ポーには思えた。
 それが、11月7日(火)の夜明け前であった。

 半袖の下着でも寒くはなかった。テレビを点けるとニュース番組が映っ た。アメリカのブッシュ大統領が青柄ネクタイで左手の人差し指を目の前 で振り、叫んでいると思ったら画面が急に変わり、ポルトガルサッカーの 結果が延々と続き、ヨーロッパ各地の天気予報に変わる。言葉が判らなく ても天気予報は国際的表現だ。どうも本土ポルトガルは一日曇りのよう。 でもここは、アフリカ大陸の方が近いマデイラ島だ。晴れると、ポーは予 想した。
 夜があけ、再びベランダに出ると朝日が左手に広がる青空を赤く染め、 目の前のフンシャル港と密集する町並みの白い壁、それに大西洋をピンク 色に暖かく包み込んでいた。  フンシャルの、夜明け前と朝焼けの景色は、ポーには魅惑的な世界に映 った。そして、なぜかとても得をしたような気持ちにさせてくれた。

 「けいの豆日記ノート」
 ベランダからの景色がいいこと、これは、そのホテルに実際に行かないとわからないことである。 豪華ホテルなら、前部屋から、雄大な景色が見えるようになっているのだろうが、そんなところは泊まれないのである。 安いホテルだと、ベランダもなく、窓の向こうは、隣の壁だったりすることがよくある。 安いのだから、文句もいえないが。
 同じ金額なら、ベランダがあって、景色もいいところがいいに決まっている。 部屋を見せて決めれるホテルならベランダの外も確認できる。 その前にシャワーだけでなくバスタブがあることが確認要であるが。

          《三角屋根が残るサンタナに行く》

 今日も42ユーロ(6720円)のツアー観光バスを使わず、各停どまりの 市営バスで島の北側にあるサンタナに向かった。ロープウエー乗り場の近 くにある市営バス乗り場から10時発で1時間半(3.4ユーロ、544円) の乗車だ。ツアー観光バスは1日観光の食事付きだから、目的地は同じで も高い。
 昨日は雨模様だったが、今日は満天の晴天だ。サンタナ行きドンコバス も乗客が30人を越していた。いろんな外国語が入り乱れ、出発前はいい 大人が遠足に行く子供達のように華やいだ。日本人は我々のみ。みんなの 視線を感じた。その騒ぎも狭い道を登り出すと、ピタリと止まる。

 市営バスは唸って唸って山道を登る。きのうポルト・モニスに行くとき 径験した山道よりきびしい。でも今日は、南国の太陽光線がまぶしく大地 を包み込み、美しく力強い車窓風景の連続を体験させてくれた。 尾根から尾根に向かって、登っては下るを繰り返す。まるで狭い山道は、 ジェットコースター並みの迫力感と緊張感の遊園地だ。
 谷間に食い込む緑色の急斜面には、マデイラワインに使う葡萄畑が収穫 後茶色になって段々状に幾重にも巻きついている。その景観の中に、白い 壁とオレンジ屋根の農家が、間引きされた谷間に咲く花みたいにしがみつ いていた。

 遠くに1800m級のピコ・ルイヴォ山がとがって見えてきた。大西洋に浮かぶ小さな 島に来ているのを忘れさせるほどの山岳風景だった。その中を市営バスで 相棒もポーも、乗客30人ほどが揺られに揺られていた。 この振動は、20年前日本でも体感したとポーは思う。新潟県の沖、日 本海に浮かぶ佐渡は流人の歴史を刻んできた島だった。それにかつて金山 (きんざん)で知られた島でもある。ポーはこの島に1172mの金北山 を始めとする山々があるとは思ってもいなかった。
 その思ってもみなかった山道を初めて車で走った時の驚きに似ていた。 マデイラ島はその佐渡より面積的にはやや小さかったが、佐渡より山道 から見る光景には農業の厳しい生活感が伝わってきた。金山で知られる佐 渡と、マデイラワインで知られるマデイラとの環境の差なのだろうか。

 山道を下ると、北側のファイアルの町に着く。切り立った断崖がそのま ま海に流れ込むような溶岩の入江の小ぶりの町だった。  乗客を一人下車させると、また山道に戻って目的地のサンタナに向かっ た。島の北側に広がる大西洋が見え隠れする山道を進んだ。
 11時半、サンタナに着いたようだが誰も降りない。乗客は、サンタナ の終点バス停は目の前が大西洋の海岸の町だと思っているようだった。相 棒もポーも同類だ。
 運転手が大きな声で、サンタナ、サンタナと叫んだ。乗客は、ここがと いう顔で納得出来ないまま、ノロノロと全員下車した。海は民家が点在す る遥か下った先の先に見えた。下車した広場は、食堂と土産物屋がポツン と置かれた傾斜にあった。観光客は、みんな唖然とした顔だ。
 下車した相棒は『サーてと!』と呟き、息を吐きバス停の時刻表を見る。 フンシャルに戻る次の便は1時間半後の13時、その次が15時半だと確 認し、4時間後に決めて、広場の坂を下った。

 「けいの豆日記ノート」
 サンタナの町は、わらぶき屋根の家があるというので、行ってみることにした。 バスが走っているときに1軒、見つけた。 町にいけば、たくさんあるのかと思っていた。 バス停付近にも、それらしきわらぶき屋根はなし。 事務所らしきところの人に聞いてみた。 教えてもらった場所は三角屋根のトリズモ(案内所)であった。 いかにも案内所らしく作られた家であった。 この町の地図がほしかったので聞いてみるとマデイラ島全体の地図をくれた。 サンタナの地図はないという。 これでは、町の中を計画的に歩くことができない。 しかたなく、適当に歩くことにした。

 見るものが何もなかったが、坂を下った先20mほどに三角形の茅葺き の屋根が見えた。バスが着く前に、車窓から相棒は確認ずみのように歩い て行った。カンナの花が海風に揺れている。その先に見える三角形の茅葺 きの家は入り口の左右に小窓があり、入り口の上にもうひとつ小窓がある。
 その窓縁は青色で色ぶちされ、壁は白色だ。中に入ると三角屋根の建物 は平屋で狭い。いかにも、観光のために建てられたかつての住民の住居の たたずまいであった。更に坂を降りていくと三角屋根の住居の前でおばさ んが見なれない衣裳を着こみ、中に入って見ろと手招いている。旅なれた 者なら臭すぎる演出だとわかる。が、相棒はその三角屋根の建物に入って いった。部屋の中は生活臭がなく、小さな部屋の中にはベットがおかれそ の周りに家族の写真が10枚ほど並べてあった。カメラのシャッターを相 棒は1枚も切らずに外に出た。おばさんは親指と人差し指を何度もこすっ て見せた。金をくれのアクッションだ。
 相棒は入る時から用意していたように、1ユーロをおばあさんの手のひら にのせた。おばさんの顔には笑顔はない。こんな観光客は初めてだ、とい う皺の顔であった。
 『妥当な料金だよね、ポー。シャッターを押してないもんね』相棒は平 然と言い放った。

 かつて島の住民は、日本の世界遺産として残る岐阜県の白川郷と同じ茅 葺き屋根に住んでいたと認識させてくれた。しかし、この地に残る茅葺き 屋根の民家は白川郷の茅葺き屋根民家には及びもしないマッチ箱みたいな 小屋だった。白川郷の茅葺きには今も人々が生活を続けているし、昔は一 つの屋根の下で一族50人も一緒に生活していたほどの2階建て、3階建 てという大きな茅葺き屋根だ。
 相棒の決断は早かった。着いた時の予定を即、変更して13時発の市営 バスに乗った。

 「けいの豆日記ノート」
 予定では、サンタナでランチを食べてから、フンシャルに帰るはずだった。 トンガリ屋根の家は数えるほどしかなかった。 それも観光用にしてある家ばかりであった。 廃墟になっている家も多かった。 道行く人もあまりなかった。 農家の奥のイヌが通るたびにワンワンとないていた。 ここであと2時間半を過ごすのがもったいないような気がした。 フンシャルの町をもっと歩いてみたかった。

          《滑走路は海の上》

 帰りのバス路線は山間部を通らず、険しい海岸線を東に向かって走った。 ポルト・ダ・クルスから東側の海岸マシコを通り、飛行場のあるサンタ・ク ルスの空港脇を走り、1時間半かけてフンシャルに帰ってきた。行きと帰 りの高低差は、1000m以上はあった。

 マシコは、東海岸のマシコ川の河口平地にあり、人口1万人もいるらし い。マシコは歴史的人物、ザルコがマデイラを発見し、上陸したところだ と運転手がサイドブレーキを引き、振り向き教えてくれた。  この町に途中下車したくなった。隣りの相棒を見ると、口をあけて眠っ ている。後ろを振り向くと、来るとき一緒に乗ってきた外国人の顔ぶれも 変わらない。皆、帰りまでの1時間半を長く感じて過ごし、バスの出発を 待って再び乗りこんできた仲間だった? その仲間を見ると、ほとんどが 口をあけて眠っていた・・・。
 「まッ、いいか!」と、ひとり声に出してポーは弱々しく吐く。仲間の眠 りを起こすわけにはいかなかった。40代の運転手がポーを見て微笑む。 寝かせておいたら乗客も幸せだし、早く帰れるおいらも幸せ、そんな微笑 みに感じられた。サイドブレーキをはずした運転手は、笑顔でハンドルを 大きく切った。

 コンクリートの橋げたが、何十本と車窓に飛び込んで来た。青い空から ポルトガルの文字を機体に背負った飛行機が着陸してくるのが見えた。 サンタ・クルスの空港だった。橋げたが、海中から乱立し、空港の滑走 路を支えている命の柱だったのだと、知った。火山地帯の溶岩で成り立っ ているマデイラ島は平地が少ない。滑走路を延長をするためには、海に何 十本もの頑丈な柱を並べ、その上に長い長い滑走路を造ったのだ。その橋 げたが車窓に飛び込んできた。なぜか、その時だけ相棒は目覚め、橋げた の乱立を撮っていた。  シャッターチャンスを物にしている相棒の根性が嬉しかった。

 「けいの豆日記ノート」
 昔は滑走路が短かったために、飛行機が降りるときに急ブレーキをかけるので怖かったらしい。 現在は、海岸に1千メートルの滑走路を造ったので楽々と降りれるようになったという。 その滑走路を見てみたかった。 バスがこの滑走路の横を通るなんて知らなかった。 バスに乗っている間はいつも寝ていると思われているが、たまには起きている。 ちらちらと外の景色を見ているのだ。 だから、マシコの町もサンタクルスの滑走路もちゃんと撮っているんだよ。

          《マデイラ島フンシャルの午後》

 腹が空腹で鳴った。ポーの腹ではない。相棒の、腹だった。 サンタナから1時間半後の午後2時30分、島の中心都市フンシャルの 市営バス終点駅のひとつ前のバス停で降りた時だった。 相棒の頭の中には、フンシャルの地図が焼きついていた。一度通った道 は頭の地図にインプットされる。まるで、犬の臭覚が相棒にはあるようだ。 方向音痴のポーには、そうとしか思えてならなかった。
 30人程の仲間を乗せて、バスは終点に向かって走り去っていった。  目の前のフンシャル港には、豪華客船が4隻停泊していたがその1船が、 次の港に向かって出航するところだった。船体にLONDONの文字が刻 まれている。そして、乗客がデッキに鈴なりになっているのが見えた。そ の中に上半身裸の男達の姿が見える。一人や二人ではない。20人近くが 確認できる。11月のフンシャルを出航する甲板でも太陽が照りつける限 り、肌に直接陽射を浴びたいと思う北欧人だ。

 相棒のシャッターが鳴っていた。 どんな風な人生を生きてきた人々が裕福な船旅を楽しんでいるのだろう か。大西洋に浮かぶ、ポルトガルの〈大西洋の真珠〉と呼ばれているマデ イラ島に思いをはせ、出航して行ったのだろうか。お金持ちの人々の心は 貧乏人のポーには計り知れない。港から港へと、渡り歩いていく豪華客船。 そんな余韻(よいん)を秘めて、豪華客船は白い波走を描き去っていった。

 マデイラ島の旧市街地に踏み込んだ。常宿があるエリアだった。 ロープウエイ乗り場の山側にある石畳の狭い路地には、レストランや昔 からの店が残っていた。海岸通りの店に比べたら華やかさには欠けている。 大きな看板があり、料理の写真と料理名・料金が何種類も貼ってある中 華店が目を引いた。今まで5年もポルトガルを歩き続け、幾つものレスト ランで食事をしてきたが(日本では写真つきの料理メニューはいくらでも 見てきたが)初めてマデイラ島で出会った。店の名は長城飯店。店の前が オープンテラスになっているが、客は一人もいない午後3時だ。テーブル に並べてあったグラスを黒髪の島の娘がかたずけていた。相棒が娘に聞く。
 『ランチ、いい?』  娘は振り向くと、待ってと言って、店に駆け込む。白い背広を着た小柄 な中国人風の男が店から出てきて、ランチタイムは終ったと告げる。 相棒は看板の前に立ち『この料理が食べたいのよ。美味しそう!』と料 理の写真を指差す。大皿に春巻き、チャーハン、具沢山の焼きそばが盛ら れた料理、もう1品は春巻き、チャーハン、具沢山の酢豚の料理、それに ビールとジャスミン茶を頼む。『料理は中華ね!』と笑みを忘れなかった。

 男は苦笑して、席を指した。「謝謝!」とポーが言うと、男は目を丸く し笑顔で、謝謝は日本語でなんて言うのかと聞いてきた。「謝謝、ありが とう!」男は、ありがとう!ありがとう!と連呼した。日本人の観光客も たまには来るのかも知れない。全部で10.8ユーロ(1728円)だった。 中華の味だった。腹が減っていたので、美味かった。
 食後、男が再び笑顔で現れ、聞いてきた。どうもこの島で生まれ育った 三世ぽかった。 客が来たときは?「いらっしゃい!」 別れは?「さようなら!」  三世は何度も声に出して反復した。商売熱心さにポーは感心した。別れ 際に、三世は笑顔で言った。<ありがとう!さようなら!>と。

 「けいの豆日記ノート」
 中国人は、商売上手で世界中で、生きていけるといわれている。 実際、このポルトガルでも町にひとつは中華料理店がある。 安いものを扱う雑貨店や洋品店は、中国系のお店である。 店の前にハデハデの飾り付けがしてあるのですぐにわかる。 お土産物のバッタモンなども売っていたりする。 なので、地元に人たちにはあまりよく思われていないのも現状である。
 知らない土地に来て、行き抜くこと、たいへんなことだったろうと思う。 ポルトガル語もできない雑貨店もあったりする。 ポルトガル人相手でなく、観光客相手であることよくわかる。 どこでも生きていける根性は、すごいと思う。

 この旧市街地の裏通りは職人街だとわかった。   どの店も歩いているだけでは何の店か判らない。足を止めて薄暗い中を 覗かないと判らないのだ。その店を相棒が覗き入った。半袖姿の40代の おじさんが古いミシンで靴を作っていた。背後の棚に、ベージュ色のなめ し皮で、履く口元には暖かそうな白いふかふかの毛(うさぎ)がほどこさ れ、女性には喜ばれそうな半ブーツが並べられていた。でも、最近その需 要が減っていると寂しそうに語ってくれた。
 苦心惨憺(さんたん)の会話からの情報を。ご主人は三代目。納品先は ほとんどがトボガン(坂を滑り下るソリ−状の乗り物)で名高い丘の上の モンテにある、ヨーロッパ各地の人々の別荘地住民だった。代々受け継ぎ ひとりで作り続けているという。

 閉ざされた店の2軒目。また相棒が薄暗い店を覗きこむ。MADEIR Aと黒帯に白い文字で書かれたストロ−ハットを巻きつけた、帽子を作っ ていた。あのトボガンを後ろから操縦する若者がかぶっていたストローハ ットだった。この店が代々作ってきたのだ。この裏通りの店が、トボガン とつながっているとは思わなかった。その偶然の出会いが、ポーは嬉しか った。だから、一日二万歩の旅がやめれらない。

 3軒目の店。相棒が歓喜した。ラヴラドーレス市場の花売り娘(おばさ ん達)が着ていたスカートの布地が芯に幅3mほど巻きついている布地を 見た。相棒は物静かなおじさんに『売ってくれますか?』と言った。テー ブルクロス(写真展会場の)にしたいんだな、とポーは察知した。
 おじさんは売らないという。相棒は、日本から来た旅人だがその布地が 心を引く、だからぜひ譲って欲しいと、手振りを交えて訴える。おじさん は仕方なさそうな素振り。相棒の熱意に負けたのか、オブリガード(あり がとう)と、納得してくれた。正方形にハサミを入れてくれた。18.9 8ユーロ(3037円)だった。ふたりの昼食代よりはるかに高かったが、 相棒は嬉々として買った。
 その心意気をポーは納得した。ケチケチ旅の中で、先々を考えての行動 が嬉しかった。ケチケチ旅の中での高価?な買い物に、ポーは相棒に笑顔 を送った。嬉しそうな相棒の笑みが返って来た。

 「けいの豆日記ノート」
 お土産はほとんど買ってこない旅である。 帰りにチョコとかのお菓子を少し買うくらいである。 チョコといってもポルトガルで作られたものではない。 ほとんどが他のヨーロッパの国々で作られたものである。 このマデイラの布はほしかった。 マデイラでしか買えないと思った。 お土産用には、必ず使われているカラフルな布である。 民族衣装のスカートにも使われている布だ。 ここは、布地屋でなく、お土産品を作る店のようだった。 お土産の袋や帽子などに裁断してある布がミシンに山積みされていた。 ここで作られた民族土産がお土産店に並ぶのだろう。

          《あこがれの四ツ星ホテル》

 その裏路地で、ひとりがやっと通れる程の小道に出会う。 見たら、行く!が、歩く旅の約束だった。勿論、先頭は相棒だった。何 処に通じる小道だか、その時は判らなかったが我らの宿に向かった坂道の 狭い路地だった。が、あり得ない光景が飛び込んで来た。ブルーのプール が目前に飛び込んで来た。四ツ星のホテルの中庭だった。我らの安宿の道 下が高級ホテルだったと初めて知った。
 ホテルの名は、「Albergaria Dias」。金髪の30代のカり−へアー女性 が笑顔で走り寄って来た。珍入者の我々は事務所のモニターに映し出され ていたに違いない。相棒が吐いた。『あそこに見えるMIRA SOLが 私達の宿。日本から来た』と彼女に言った。「ド ジャパォン?!(日本 から?!)」 『Sim!(はい!)』 と相棒。彼女は笑顔いっぱいで、 「Cecilia、セシリア」と名乗る。『メウ ノーメ エ ケイコ!』と返す。 息投合の出逢いだった。
 ポーは「すぎさん」と名乗った。彼女は「ケイコ!」と嬉しそうに言い、 相棒の頬にキスをし、「スギサン!」と手を握ってくれた。キスしてくれれ ばいいのに・・・と思う。相棒のポルトガル写真集をリックから出して贈呈した。 頬にキスをしてくれた。2800円のキスだった。 そのセシリアはホテルの主任だと知る。

 内部を案内してくれた。3階の部屋は4☆だったが窓から見える大西洋 は我々の安宿から見る景観のほうが迫力があった。それは、このホテルの 屋根の上を豪華客船が走っていくように見えるからだ。映像的に、だが。
 セシリアはいっぱい語りかけてくれたが、返答に困惑した。聞き取れな かっただけだ。普通に会話できるだけのポルトガル語を残念ながらふたり は持ち合せていなかった。でも、セシリアとはアイコンタクトだけはツー カーだった。眼力に暖かな表情がある。さすが、客商売を続けて来た女性 の瞳だ。美しく力強く輝いていた。

 「けいの豆日記ノート」
 この細い道がホテルの庭から港方面に出る裏道であること、知らなかった。 数人の観光客風の人たちが出てきたので、道があることがわかった。 奥になにがあるのか、見てみたくなった。 細い道をぬけると急に視界が広がった。 ブルーのプールと籐で作られたテーブルとイスが見えた。 だれもなかったので、入ってしまった。 ホテルの人が出てきたとき、怒られるかなと思っていた。 意外に歓迎してくれたことがびっくりであった。 人懐っこいセシリアさんは、とても魅力的な女性だった。 今度来るときには、このホテルに泊まってみたいとも思ったが、きっと泊まれないだろうと思う。 なんせ、ケチケチの旅なのだから。

 海沿いの道にもどった。  海辺の石畳は、街路樹が長くみどり色に続く心地よい散歩道だった。そ の時、白髪のお年寄りに会う。街路樹には、いっぱい実がついていた。葉 っぱが胡桃(くるみ)の木に似ていた。おじいさんは実を割って、これは 渋くて食べれないと教えてくれた。話好きのおじさんの笑顔がいつまでも 続く。胡桃ではなかった。歩けば、いい人に出会えるものだ。

 昨夜会った海岸通の焼き栗の夫婦に会いたいと、相棒が言った。 スーパーで、相棒好みのあの半切りの安くてでっかい美味いメロンを買 って、夜空の中に飛び出した。 フンシャルの港町はネオンがレストランを飾る。ヨットの形を浮き彫り にするレストランは、かつてあのビートルズが全盛期の頃持っていたヨッ トの停泊船着場だと店の青年が自慢そうに教えてくれた。 夜空に、星空がちらほら見えて来た。
 海岸通りで焼き栗店を始めて20年だという夫婦からほかほかの焼き栗 を買って皮をむき、貰った塩をほんの少しつけて食べながら宿に向かう。 夜明け前の満天の星座は、明日の夜明け前にもう一度相棒をたたき起こ し、見ようとポーは思いながらフンシャルの海岸通りを焼き栗の一粒一粒 を味わいながら、相棒と宿に向かった。

                              *「地球の歩き方」参照*

終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。 次回をお楽しみに・・・・・・・2009年5月掲載

掲載済み関連写真===≪ポルトガル写真集≫2006年版旅日記
前途多難の予感のポルト4 ・2出会いのポルト5 ・3ドウロ川終着駅のポシーニョ ・4アルトドウロの基点のレグア2
輸送基地のトウア ・6ワインの里ピニャオン ・7中継バス地点のヴィア・レアル ・8地上のメトロのポルト6
・9日本語補修校のポルト7 ・10大学の町のコインブラ2 ・11コンデイシャとコニンブリガの遺跡 ・12宮殿ホテルのブサコと天然水のルーゾ
・13フィゲイラ・ダ・フォス ・14リスボン3 ・15サンタクルスとエリセイラ ・16フンシャル
・17モンテ ・18カマラ・デ・ロボス ・19ポルト・モニス

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