「ポー君の旅日記」 ☆ メーデーのイベントのリスボン13 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2013紀行文・1≫
=== 序章●リスボン起点の旅 === 8回目の写真取材旅のリスボン13
《落日を見た日》
白い雲海と青い空をピンクに染めて、太陽が落ちて行く夕陽を見ていた。
2013年4月30日、知多半島の常滑市にあるセントレア(中部国際空港)から12時間かけドイツのフランクフルト空港まで飛び、更に乗り換えてポルトガルの首都リスボンに向かった。
その高度5000メートル上空を飛ぶ飛行機の小窓から見える落日を楽しんでいた。
太陽が雲海に落ちるとピンクの空とピンクの雲海が、暗くというより急に黒くなっていく。
やがて、真っ黒な世界から機体が高度を下げると、ポルトガルの夜景が遊園地のイルミネーションのように見えて来た。
それは、映画の画面だった。胸が躍るほどの感動映像であった。日本時間とポルトガル時間の入れ替えをした。
ドイツで腕時計の針を左に8時間戻し、ポルトガルの上空で更に1時間戻した。9時間の時差である。
眼下は、現実の時間帯だ。
21時を過ぎた街明かりがあった。それは眼に優しい、美しいきらめきだった。
夜の9時を過ぎるとリスボン市民の夕食タイム。レストランも中華店もファド店の演奏も、夜は9時である。
また、夕食の遅いポルトガルに8回目の写真取材旅に来られたその嬉しさに、脳のスイッチを切り替えた。
ターンテーブルに相棒の赤い新品の旅行バックが流れて来た。1分、2分、3分と、ドキドキする不安が過(よぎ)る。
『来たよ〜っ!』と、対面の荷物がせり上がってくる搬出口で待っていてくれた相棒の声が届いた。
10年ほど使っている古びた旅行バックに《PORTUGAL LISBOA すぎさん》と黒いマジックで大きく書いた品のない物体が流れて来た。
ホッとした。続けて2回もロストされた呪いの旅行バックであった。
2008年にセントレアで呪い封じを込めて書いて以来、ロストされなくなった。
その呪いの旅行バックが今回も嬉々とターンテーブルに出て来たのだった。嬉しさが込み上げた。
ロストされていたら、空港を出るまで1時間以上は手続きで遅くなる。
今回は幸先(さいさき)が良いと、思わず笑みが出た。しかし、そうは問屋が卸さなかった。
「けいの豆日記ノート」
今回で、8回目のポルトガルの訪問である。
2年続けての訪問には、訳があった。
5月初めに行われるコインブラ大学の卒業イベントを見たかったからである。
このイベントの日程は毎年かわるので、現地の人の情報がないと調べることができない。
前回、訪れたコインブラのKIMIKOさんの情報が重大な決定となった。
単なる卒業式でなく、町ぐるみのパレードなどのイベントをぜひ、見てみたかった。
なので、旅の日程も卒業イベント週間にあうように計画をした。
今回もルフトハンザを利用することにした。
いつも、待ち時間が、フランクフルトで6時間もあるのだが、今回は、待ち時間3時間のチケットを獲得することができた。
もちろん、格安のチケットである。
毎日のように、ネットの予約の便をにらめっこして、探したのである。
安く行くようにするには、最低限の努力は必要である。
《奇怪な宿》
22時半、リスボン空港のタクシー乗り場から50代が運転するタクシーに乗った。
今夜の宿「リスボンビューホステル」の住所を相棒が告げた。
リスボンのタクシー運転手は暴走気味で名高い。特に深夜は、今までの経験から我らはその怖さを知っている。彼は、絵に描いたような運転だった。
ポルトガルは右側通行なので走行風景感覚が慣れるまで怖いのに、そこへ猛スピードが加算され恐怖の倍返しだ。
恐怖は、これで終わりではなかった。
フィゲイラ広場の一角にある今夜の宿があるビルの前でタクシーは止まり、運転手は印刷物を見せ10時過ぎは24.5ユーロだとまくしたてた。
タクシーメーターは8.5ユーロだった。こんなことは今までにないことだった。
今までの経験で空港からこの広場一帯までのタクシー料金は、トランクに入れた旅行バック2つの運搬量を入れても10ユーロ以下である。
これは、完全なぼったくりである。ケチケチ精神の塊(かたまり)である相棒に正義の火がついた。
『馬鹿にしないでよ!何が24.5ユーロよ!おじさん、訴えるよ!』と、日本語で吐き捨てた。
そして、10ユーロ札を運転手の顔に突きだした。運転手は、一瞬相棒の剣幕にたじろぐ。むっとした表情が走る。
10ユーロを渋い面で受け取り、トランクを開け2つの旅行バックを出し、去って行った。
『ふ〜、震えたよ、怖かった・・・』と息を吐き、いつもの可憐な相棒の微笑が浮かぶ。
身体は小さいが肝っ玉はでかい、やる時はやる相棒であった。
一難去って、また一難が待っていた。
22時45分、ノートに記載してある予約した宿の住所を確かめ、宿の看板もない壊れかけた貧弱なベルボタンを押した。
何度も何度も、押したが反応がない。もしかしたら、壊れかけた呼び鈴は、今夜の宿ではないのかもしれない。
相棒は沈着だった。路地からフィゲイラ広場に出て、小奇麗なホテルに入る。おいらは旅行バック2つを転がしてホテルの入り口で待つ。
しばし、相棒を待った。
「リスボンビューホステル」は、あの壊れかけたベルボタンだと、相棒は笑顔で出てきて言った。
ポルトガル会話がそんなに出来ないはずなのに、どう聞き出したのか不思議だ。
特殊能力があるに違いない。どうやって聞きだしたかをおいらは聞かない。
ただ一言、良かったねと言った。23時になっていた。
はたして今夜はベッドで眠れるのだろうか。セントレア・中部国際空港を発ってから23時間もたっていた。
再び、壊れかけたベルボタンを相棒が押した。カチャ!鍵の音が鳴った。扉が開いた。若いふたりの女性の笑顔があった。
「KEIKO?」と聞いてきた。『Sim!(シン!はい!)』と、ホッとした安堵を込めて相棒が応(こた)えた。
3階まで重い旅行バックを運び上げた。フロアで相棒が笑顔の女性たちから説明を聞いていた。
そして、ふたりは鍵を二つ置き、出て行った。
この宿に入る鍵と部屋に入る鍵だった。ソファがあり、テーブルがあり、テレビがある居間だった。相棒が台所から出て来た。
ここは、自給自足できるよ。それに5部屋あり、居間も風呂も台所も共用のホステルだから利用価値満点だといった。
部屋も広く、宿泊料39ユーロ(5070円)。ひとり5070円ではない。
ひと部屋5070円だ。つまり、一人支払い2535円の宿だった。
台所には湯を沸かせば、コーヒーも飲めパンも無料で食べられる朝食も用意されていると嬉しそうに言った。
勿論、スーパーマーケットで買ってきた素材で料理もできる器具も用意されていた。
さすが、ケチケチ魂(かたまり)の相棒がネットで予約した宿である。
でも、昨年2012年の旅での初日、4階屋上に建て増した部屋に泊まった経験がある。
何時もひやひやさせられる「怖の宿」を今回も体験させられた続編ものだった。
しかし、この宿はメモメモ(メモをしておく)宿だった。
「けいの豆日記ノート」
リスボンのホテルはネットから予約したホテルである。
アパートメントホステルのような感じで部屋数も少なかった。
立地条件がフィゲイラ広場の前ですばらしくいいし、安かったので決めた。
出発の数日前に何時に到着するのかを問い合わせるメールが届いた。
空港でもたもたしていて、遅くなってはいけないと思い、遅めの時間をつげておいた。
看板もないホテル?に大丈夫なのかと不安になった。
近くのホテルで聞いても、場所はあっているらしい。
鍵が開かないようなら、他のホテルを見つけなければならないのかと考えていた。
高いホテルしかないだろうな・・・
近くのホテルから戻ると女性の姿が見えた。
部屋が少なく、個人経営で管理人が通いの為、普段はだれもいないホテルらしい。
ビルの3階を間借りした個人宅を改装したようなホテルであった。
それで、到着時間を問い合わせるメールが来たのだと納得した。
ヒヤヒヤものであった。
《翌朝》
昨夜は着のみ着のまま倒れるようにおいらは寝た。まる24時間もの移動で、ぎりぎりの疲れが老体の身に襲った。
でも、今朝はいつものように早い目覚めだった。窓の外は、明るくなり始めていた。
ポルトガルのフィゲイラ広場を部屋の窓から見た。
広場を囲む5階建ての建物の背景の、高台にある家々を朝日が当たりピンク色に染めていた。
広場には人影が数えられるほどだか、黄色い車体の路面電車が眼下の停留場に停まっていた。
3階の窓を開けたとき冷やり寒さが忍び寄る5月1日(水)6時10分の首都リスボンの朝であった。
温かいコーヒーが共有の居間のテーブルで香っていた。相棒が台所からパンを運んできた。
『ここなら充分、自給自足ができるよ。今度来た時は、ここだよ。
共有だから友達もできるし、町の中心だからどこに行くにも便利だし、ね』と相棒。
6時20分、誰も起きて来ない。話声は小さく、けつまずいても音のしないように倒れ、決して痛て〜!なんて絶叫してはならぬ不便さはあるが・・・。
食器はきれいに洗って、片付ける。そして部屋の中に旅行バック2つを残し鍵をかけた。
トイレをすませ7時10分に外に出る扉の鍵をカチャリと掛けた。鍵ふたつは肩掛けバックに収めた。
薄寒い空気が流れている。背の高い黒人の青年は皮ジャン姿だ。停留場に停まっていた路面電車はない。
空は青空。キュキュキュと、レールを噛む車輪の音が聞こえてくる。
そして、路地から広場の中に黄色と赤い路面電車が2輌続けて飛び出し、カーブを切って目の前の停留場で停まる。
当然、相棒のシャッター音が鳴りだす。愛しのポルトガル撮影取材の旅が始まったと、おいらは思う。
それにしても、リスボンの朝は遅い。7時を過ぎているのに人の姿がまばら。フィゲイラ広場の隣りにあるリスボンで一番賑やかなロシオ広場はどうだろうか。
なにせ、夜(こちらでは日が落ちるのが9時前、夕方だ)9時でないと開かないレストランでもわかるように、こちらは日本でいえば夜族がほとんど。
よって、朝は弱いのかも知れない。
「けいの豆日記ノート」
ホステルの泊まった奥の部屋だけ、バスルームがついていた。
他の部屋は共同のバスルームである。
若いカップルが1組泊まっていた。
朝、そ〜っとキッチンで支度をしたつもりだったが、カップルの女性がキッチンに来て英語で話しかけた。
たぶん、「寝ているので静かにしてくれ。」という文句だったのだろう。
朝の遅いポルトガルでは、早すぎる時間なのだと思う。
申し訳ありませんでした。
自分で、モーニングを作るのもいいかもいいかもしれない。
次回、リスボンを訪れるときに、このホステルがあれば、利用したいと思う。
ここなら、食材を買ってきて料理することも可能である。
あちこちに行かず、リスボンだけゆっくりと過ごす旅もしたいものである。
いつになるやら・・・
《早朝の1時間40分》
カスカイスの町に行くためテージョ川沿いにあるカイス・ド・ソドレ駅に向かう。
グリーン路線の地下鉄を使えば、ロシオ駅から2つ目の駅がカイス・ド・ソドレ駅。
15分もかからない。
また宿の前にある停留所からでた路面電車は、すぐ左折し、プラタ通りを一直線に行きテージョ川に面したコメルシオ広場に出て、右折すればカイス・ド・ソドレ駅に行ける。
しかし、歩かなければ、欲しい映像は撮れない。早朝の町を、ゆったり1時間40分かけて歩いた。
ロシオ広場もプラタ通りも、人の姿も車も来ない。
またロシオ広場からコメルシオ広場に行ける、バイシャ地区のリスボンで一番賑わうお洒落な通りであるアウグスタ通りもがらんどう。
そのアウグスタ通りからコメルシオ広場に抜ける所に勝利のアーチがあるが工事中でテントにすっぽり覆われていた。
当然だ。通りのすべての店が開いてないのに誰が来る。来るのは、お前らだけだ。それで、いいのである。
誰もが目にしない早朝のリスボンを撮るのも撮影取材旅の醍醐味である。
限られた一日の時間を目一杯使い、しかも無駄な金は使わずのケチケチ撮影取材旅を13年間にわたり続けて来た。
ま、自分自身、摩訶不思議な、継続は宝だったと知る旅でもあった。
首都リスボンは都市部で48万人程、都市園(郊外を入れ)で人口240万人を越す、西ヨーロッパでは最古の都市である。リスボンはポルトガル語で、Lisboa(リジュボア)という。
大西洋に流れ込むテージョ川の河口から12キロメートル上流右岸にある。13年前初めてコメルシオ広場から観たテージョ川は、余りの広さに海だと思った。
リスボンは坂道が多いことで、7つの丘の町とも呼ばれているヨーロッパ大陸最西端の首都である。それも、ほとんどの道は石畳だ。
自動車が坂道を登ってくると、ガガ〜ッ、ガガ〜ッと石畳を噛むタイヤの音が鳴り響く。
特に、明けても暮れてもポルトガルの人びとはサッカー熱で盛り上がる。
現在ポルトガルには1部リーグのチームは16あるが、本拠地がリスボンにあるベンフィカやスポルティング・リスボン、ベレネンセスが勝った夜は、
自動車に乗った若者たちがチーム旗を振って走り回るとタイヤの音が夜中までやかましいほどである。
リスボンの旅は路面電車に乗って坂道の景観や家並みぎりぎりに走る遊園地でのスリル感も味わい、テージョ川沿いをのろのろ走って世界遺産であるポルトガル黄金期を
堪能させてくれるベレン地区に行き、ジェロニモス修道院やベレンの塔を満喫できる。
それに艶歌とも言えるファドを聞きながら、ポルトガル各地の美味いワインを飲みながらポルトガル料理を食べるのもいい。
そんな首都リスボンの早朝を歩いていた。白い壁の4〜5階建ての市庁舎にも全面朝日が当たる時間になった。
建物の前を走り抜ける路面電車の姿を見た。
あっちを見こっちを見、撮って歩き続けて1時間40分。目的のカイス・ド・ソドレ駅に着いた。
駅前広場前は路面電車が急に増え、人々の姿も朝の賑わいになった。
「けいの豆日記ノート」
5月1日のメーデーの日には、ロシオ広場でイベントがあると思っていた。
以前に、偶然にメーデーの日にイベントが行われていることを見たことがある。
せっかくなら、そのイベントをみてから、ナザレに向かおうと思った。
イベントは多分、午後からのことが多い。
その前にカスカイスの海を見ておきたかった。
初めの計画では、リスボンにもう1泊してから、早朝にナザレに向かう予定であった。
だが、ナザレ方面で行きたい場所が増えたため、リスボン泊を初日だけにして、夕方のバスの便でナザレに向かうことにした。
《スケジュール》
9時発の列車に乗る。40分で左車窓に大西洋を見ながらリゾート地のカスカイスに着く。
4時間ほど撮影して回り13時03分の列車で再びリスボンに戻った。(次回の2013年紀行文2はカスカイスです)
ロシオ広場でメーデーの日には必ず催しものがある。今回は北部にあるミーニョ地方の民族衣装でのダンスが披露された。
その後、約束の15時に宿に戻り旅行バック2つを受け取り、旅行バック2つを転がす時間がないため渋々タクシーに乗り、バスセンターからヴィアナカステロ行きのバスで、ナザレに向かった。
歩行メーターは、25038歩だった。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2014年2月に掲載いたしました。
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