「ポー君の旅日記」 ☆ エントロンカメント&アルモウロル城 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・3≫
=== 第一章・リスボン起点の旅 ===
ジャンクション駅のエントロンカメント&テージョ川に浮かぶアルモウロル城
《サンタレン駅からエントロンカメント駅》
歩きやすく飽(あ)きがこない、中世ポルトガルの重要なゴシック建築の都、サンタレンであった。
トゥリズモ(観光案内所)から貰った地図と資料で路地から路地へと散策し過ぎ、14時56分発の列車まで20分もなかった。
行程行動時間を管理する役目であるポーのチョンボだ。
サンタレン駅に着いた時、相棒が駅構内の時刻表で下調べしたエントロンカメント行きの発車時間が頭からすっ飛んでいた。
今回も写真取材旅スケジュールを立案したのは、相棒の写真家だ。
今日5月22日(火)は、気になっていたサンタレン駅舎とサンタレンの街、
それに、更にテージョ川上流の街エントロンカメントにあるカステロ・デ・アルモウロル(アルモウロル城)の取材であった。
共に、ガイド本には載っていない街である。
ガイド本以外の街は、今までの旅の途中で知ったことや写真展会場に足を運んでくれたお客様、
それに、ポルトガルに住む日本人の方々からの情報で、次回の取材旅を相棒が練り固めて来た。
常設市場の八百屋のおばちゃんにタクシー乗り場を聞いて、走って、運よく1台止まっていたタクシーに飛び乗った。
サンタレン駅まで、坂道を下って10分もかからなかった。
丘の上の街まで1時間近くもヒ―ヒ―登って来たのに、4ユーロ(400円)で着いてしまった。
駅舎の前で、ポーは茫然と今までいた丘の上に見える城壁を仰ぎ見ていた。
『ポー、列車が来たよ〜!』 列車に、間に合った。40分(3.2ユーロ)ほどで、エントロンカメント駅に着いた。
エントロンカメント駅舎はサンタレン駅舎より大きく、駅舎外壁は鹿の子模様のアズレージョで飾られていた。
駅舎だけではなく、駅そのものの規模がでかかった。線路の数の多さだ。20本ほどはある。きっとこの地方の主要駅であろうと判断した。
帰路リスボン行きが18時38分だと時刻表で確認し駅舎を出た。
人口20000人ほどのエントロンカメントの街が、駅舎の前に青空から注ぐ陽射しの中で白く眩しく広がっていた。
腕時計の針は15時40分。ここに来た目的は、カステロ・デ・アルモウロル(アルモウロル城)だ。行って帰ってくるまで、3時間しかない。
相棒が駅舎前に何台も並ぶタクシーにアタック。速攻である。運転手のおじさんがニカッと微笑む。交渉成立だ。
だから、トゥリズモ(観光案内所)をさがし、地図と資料を貰う時間もなかった。
「けいの豆日記ノート」
予定では、午前がサンタレン、午後からがエントロンカメントであった。
サンタレンの町が思ったよりよかったので時間があっという間に過ぎてしまった。
意外によかったというのは、うれしい悲鳴でもある。
隠れた名所を探したような感じである。
ガイド本にない名所はいくらでもあるものである。
サンタレンの駅舎の見るために列車ででかけた。
なので、市街地まで、長い山道を歩かなくてはならなかった。
この道を帰りも歩くのは、辛そうであった。
坂道は登りより下りのほうが、足に負担がかかるのである。
足の指先に負担がかかるので、巻き爪の親指が痛いのである。
タクシー乗り場をやっと探して、駅まで乗ることにした。
こんなに安いんだったら、行きも乗せてあげればよかったかな。
《アルモウロル城》
城に行くにはバスもある。しかし情報によると、不便らしい。端(はな)から、ケチケチ旅であったがタクシーと相棒は決めていた。
使う時には使うが、信条だ。往復賃と現地での待ち時間(1時間ほど)で、20ユーロで交渉済みだ。
値段交渉は、相棒の得意分野である。
タクシーが走りだすと、すぐ町を離れ右折してテージョ川に向かう。
15分もしないうちにテージョ川沿いに出た。夏場で水量が少ないように見える。
小太りの運転手のおじさんは、笑顔が可愛い。よく、しゃべる。日本にもカステロがあるか?と。
ポルトガルと同じぐらいはあると応える。(城があると言っても、ポルトガルと同じように城跡が多いが。)
だが、と思う。日本の方が、建て替えたと言っても現存状態の美しさや素晴らしさは凄いと。
美的な優雅さ繊細さは、日本の城に尽きると。
でも、これまでのポルトガル取材旅で、80か所以上の城跡を見て来たが、石積みの城壁の高さ、規模の雄大さにはかなわない。
石積みの城壁、石積み城塞の荒々しさは、実戦的容貌さに満ちている。ヨーロッパ大陸は古来から地続きの戦場であった。
島国日本の戦場とは、歴史的な規模が違う。
タクシーは川沿いの空き地に滑り込む。川の向かいにある中州に建つアルモウロル城を、3人の観光客が見上げていた。
運転手のおじさんは車を降りると、さらに丸く小柄であった。
でも、笑顔はもっと可愛く見えた。
今日は水かさが少ないから石伝いに渡れそうだ、気を付けて行っておいで、と微笑んだ。
「けいの豆日記ノート」
川の中にお城があるアルモウロル城のウワサは、聞いていた。
でも、どこにあるのか、わからなかった。
ポルトガルに住んでいる人でも知らないものである。
今回、知人から場所を聞いたので、行ってみることにした。
トマールにも行きたかったし、サンタレンもエントロンカメントも気になっていたし、ちょうどよかった。
とても不便な場所にあるので、タクシーで行くしかなかった。
タクシーの運転手さんに、メモ帳に地名と場所と絵を描いて説明した・・・つもりだった・・・
アルモウロル城は、テージョ川の中州の、小高い丘の上にちんまりと建っていた。想像していたより小さく見えた。
相棒が右に100メートルばかり走り、正面に戻り、左に100メートルばかり走り廻りカメラに城の全容を収める。
ファインダーは人を変える。一見のんびり屋だが、それは仮の姿。芯の芯は、マグマ炎上である。
その間、ポーは案内掲示板に目を通し、写真に収める。持参の小型ポ日辞典で読む、資料のためだ。
5メートルほどの浅瀬に水面から石頭が飛び石的に出ている。踏み損ねれば、膝までドブン。いや、それでは収まらない。
もっと言えば、カメラごとの大惨事だ。ポーは落ちてもかまわないが、相棒だけは無傷で渡らせたい。
惨事を避けるためには、おぶって渡るのが賢明だ。ポーは相棒に背を向ける。しかし、無理無理!と応じない。
確かに、小柄なれど重そうだ。丸っこい運転手が笑っていた。
しからばと、カメラバックとカメラを受け取り、身軽にした相棒の手を取って、ひと石ひと石のタイトロープだ。
40秒もかかって、対岸に無事到達。運転手と観光客3人から拍手が起こる。
「オブリガード!」とポーは、手を振った。 『ありがとう、ポー!』と、小声で相棒が吐いた。
岩肌に大きな葉っぱのサボテンが生い茂る。その丘を上ると、もう目の前に城壁が高々と迫りそびえ立つ。30メ―トルはあろうか。
茶色い大小様々な石が組まれ積まれ、青空に向かってそびえ立つ。まじかで見ると小振りな城ではなかった。
石組の円形状アーチを潜ると、中庭があり城塞に昇る石段が伸びている。城壁内部には通路がめぐらされ遥か眼下を一望できる。
テンプル騎士団の一員になった雰囲気にさせられた。
城塞の上から見ると、青く広いテージョ川が城に向かって流れて来る。
タクシーを止めた反対側の光景は、まさにテージョ川に浮かぶ城塞であった。
資料によるとアルモウロル城は、明日行くトマールにある世界遺産[キリスト修道院]を建てたテンプル騎士団によって、完成したという。
それに、テンプル騎士団の隠し財産が眠っている伝説があり、実際この城を発掘したようだ。
テンプル騎士団の名は、ダン・ブラウン著「ダ・ヴィンチ・コード」やその映画でも知られている。
そこで、テンプル騎士団について、ここで語っておくのも、ポルトガルを知る上で大切なことと思い、ポーの知る限りで、簡潔に述べたいと思う。
「けいの豆日記ノート」
アウモウロル城は、川の中にあるお城というには、河原から近すぎた。
反対岸から撮れば、川の中に浮かぶ城のように見える。
浅瀬を飛び石で渡っていけるほどの近さのお城は、たしかに中洲なのだが・・・
渡し船乗り場が近くにあった。
ほんとは、ここから渡し船に乗って城に渡るのである。
飛び石などで、渡ってもらっては、商売あがったりである。
渡し船は、テージョ川をぐるりをまわって城にいってくれるようである。
まわりが川で囲まれた城が撮れたかもしれない。
《テンプル騎士団とは》
ヨーロッパ史の中でも、最も謎に満ちた組織がある。テンプル騎士団である。
● 1118年、エルサレムでひとつの修道会が結成される。キリストの貧しき騎士だ。
会の目的は巡礼者を守ることであった。彼らは修道士であり、騎士であった。
その活動が評判を呼び、かつてのユダヤの王ソロモンが建てた神殿(テンプル)跡地を与えられる。
騎士団はそこで生活し、テンプル騎士団と呼ばれるようになる。
やがて騎士団は、十字軍に合流し戦う兵士になって行く。
● 十字軍を構成していたのは、ヨハネ騎士団とテンプル騎士団だった。
ヨハネ騎士団は怪我や病気の治療をする医療団。(のちの、赤い十字がシンボルの赤十字)
戦闘はテンプル騎士団で、団員の数を伸ばし強い軍事力と財力を得て行く。
ローマ法王公認の組織となり、数多くの特権や権力、財宝が転がり込む。
● そんなテンプル騎士団弾圧を企てたのは、フランス国王フイリップだ。
1307年10月13日、金曜日。フランス国内のテンプル騎士のいっせい逮捕、処刑。
1312年、テンプル騎士団の解体。
● ドイツやスペインなどのテンプル騎士団も解散させられた。
しかし、ポルトガルでは弾圧された14世紀以降、組織はそのままで名前をキリスト騎士団に変更した。
いま世界遺産になっている[トマール]のキリスト修道院は、ポルトガルのテンプル騎士団の本拠地であった。
当時騎士団団長を務めていたエンリケ航海王子は、豊かな財力によってポルトガルを大航海時代へと導いたという。
● こんにちまで言い伝えられる、テンプル騎士団の財宝とは何か。
かつて、ソロモン神殿から発掘した財宝を隠し持っていたのでは。
また、今日の銀行業務の走りシステムを作り、莫大な富を得た財産は何処に。
● テンプル騎士団の財宝財産は、何処に消えたのか。そのお宝の、噂は多く、確証がない。
《リスボンの夜》
川岸で待つ小太りの運転手は、40秒かかった飛び石を20秒で渡って来た相棒に一人で嬉しそうに拍手を送った。
観光客は日本人のふたりだけだった。
20分ほどおしゃべりなおじさんの声を聞き、駅前のタクシー乗り場に戻った。
料金を払ってきた相棒がいう。『約束は20ユーロだったけれど、メーターは29.4ユーロ、仕方なしに30ユーロ渡したけれどお釣りがこなかったよ。
負けさせたと思ったけれど、相手が一枚上だったよ』
でも、相棒は笑顔であった。拍手を2回も貰ったからね!と、ご機嫌であった。
駅前のトゥリズモで地図と資料を貰う。気さくな女性が地図で説明してくれたがエントロンカメントの街を歩いてみようとは思わなかった。
駅舎前のカフェに入り、サグレス生ビール(0.9ユーロ)とファンタ(1.2ユーロ)で喉を潤す。計2.10ユーロ、ビールの方が安かった。
「けいの豆日記ノート」
往復料金と待ち時間で20ユーロで交渉して、伝わったと思っていた。
でも、メーターが回っていて、30ユーロ近くになっていた。
なんということだろうか・・・ぜんぜん、伝わってなかったのだった。
エントロンカメント駅の陸橋を渡って反対側に鉄道博物館があった。
5時30分で閉館であった。
すでにその時間は過ぎていた。
陸橋の上から、蒸気機関車などの列車が並んでいるのがみえた。
エントロンカメント唯一の博物館だったかもしれないのに、残念だった。
18時38分の列車に乗り、2時間ほどぐっすり車中で寝て、リスボンのサンタアポローニャ駅には20時30分(8.7ユーロ)に着く。
駅前の広い道路を渡って、夜のテージョ川を見ることにした。海みたいに広いテージョ川に明りをつけた船が左右から流れて見えた。
ああ、リスボンに来ているんだな、と2日目の夜を感じた。万歩計を見た。20972歩だった。
時差ボケもなく、よく歩いたものだ。相棒は23000歩を越しているはずだ。
その川べりで偶然ピザ・スパの店を見つけ入る。9時前なのに満席近い。
ポルトガルの人たちはスペイン料理やイタリア料理が好きである。ピザ1人前にビールとコーラで10.5ユーロ。
ピザがでかいので、2人で喰っても残すかと思うほどだった。腹いっぱいの夕食である。
夜の町並みを撮ってから、宿に向かった。22時10分を過ぎていた。
昨夜、夜中に着いての今日。長く狭い階段を一直線に3階まで登り、フロントで鍵を受け、屋上にある部屋に向かう。真っ暗な屋上だった。
今夜も、夜空は星のパレードであった。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2012年9月に掲載いたしました。
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