「ポー君の旅日記」 ☆ アズレージョの市場と駅のサンタレン ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・2≫
=== 第一章●リスボン起点の旅 === アズレージョの市場と駅のサンタレン
《2日目の朝》
20時間の長旅の末に、闇夜の路地に吸い込まれ探し当てた宿の部屋は、屋上にあった。
それも一泊29ユーロ(2900円)という極安宿である。
相棒が名古屋から予約しておいた宿は、これからの旅をするうえで便利だというのが決め手。
まさか部屋が屋上にあるとは想像もしていなかった。
この12年間で幾つもの安宿に泊まって来たが、その中でも思い出の宿になるかも知れない。
昨深夜の1時過ぎ、冷え込んでいたためポーは冬のジャンパーを着込んで寝た。
今朝は目覚ましが鳴る前に目が開いた。
5月22日、6時2分前である。顔を洗うために部屋を出ると、屋上だった。
朝焼けしたピンク色の空の下であった。
その屋上で粗末な丸テーブルを挟んで半袖姿の30代の男女がパンを食べていた。
「ボン ディ―ア(おはよう)!」と言うと、ジャンパー姿のポーを見上げ怪訝(けげん)な顔を流し、日本人か、私たちはロシア人、モスクワから来た、と言った。
ポーは、そうです、北方4島を奪われた日本人だと日本語で応え、握手してからトイレに行き冷たい水道水で顔を洗い、口をゆすぐ。
水は飲めないわけではないが、みんな水は買って飲んでいる。
彼らもペットボトルの水を呑んでいた。それはさて置き、この時期は北欧の人たちも多いが、ロシアからの観光客も増えていると聞いていた。
7時、旅行バックを狭いベッドの間に2つ置いて、屋上から3階のフロントに降り、昨夜お世話になった青年に[サンタレン]に行って来ると相棒が告げる。
青年は「ボア ヴィアージェン!」(良い旅を!)と、微笑んで送ってくれた。暗黒街の青年ではなさそうだ。
ポーが今夜もここでいいのかと、狭くて長い急勾配の階段を怖々(こわごわ)一歩一歩降りる相棒に呟(つぶや)く。
『郷に入っては郷に従う、だよ』と、軽く切り捨てられた。
「けいの豆日記ノート」
ネットで探した、ホテルであった。
探すときのポイントが、安くてサンタ・アポローニア駅に近いということだ。
「モーニングもなく、貧祖なところなんだろうな。」という予感はしていたが、屋上の付け足した部屋だとは、予想外であった。
まあ、最初の2日間を、貧祖にしておけば、後のホテルがみんなリッチにみえるのでは・・・な〜んてね。
《サンタ・アポロ―二ア駅》
宿の狭い出入り口の扉を開けると、目の前を道幅いっぱいに通勤バスが通過し、人々の姿で朝の狭い路地は活気に満ちていた。
昨夜は薄汚れた裏路地通りだと思っていたイメージが吹き飛んだ。
歩いて行く人々の先に朝日を浴びた白い建物が浮かんで見える。ポーはこの建物を知っていた。
近づくと、やっぱりバロック様式の建物は「軍事博物館」であった。
今まで2回ほどサンタ・アポロ―二ア駅で降りた時、目の前に迫る白い建物を目の当たりにしていたからだ。
18世紀には兵器庫だった軍事博物館は、15世紀の大航海時代から植民地時代にいたる武器が展示されている。
別名「鉄砲博物館」と呼ばれ、観光客に人気がある。
日本からすれば、1543年種子島にポルトガルの船が漂流し、日本に鉄砲伝来の歴史を刻んでいる。
これを契機に鎖国の日本と最初の国交をした国として、今も友好国として教科書にも記されている。
2010年7月には、名古屋の栄にあるセントラルパークギャラリーで「日本ポルトガル修好通商条約150周年記念展・山之内けい子写真展part17」を開催した。
首都リスボンの鉄道の玄関口であるサンタ・アポロ―二ア駅は、宿から5分もかからないその軍事博物館の向かいにあり、えっこれが駅舎?と思うほどの簡素な外観である。
スペインからの国際列車や北部の第二都市ポルトや大学の町コインブラなどの発着駅であり、ふた駅先にあるオリエンテ駅は、
サンタ・アポロ―二ア駅で発着する列車はすべてこの駅で止まり、南部のファーロやエヴォラなどの発着駅になってもいる。
また、近郊列車も止まる。
相棒はサンタレンまでの切符を求めて広い駅構内を走り回っていた。
サンタレン行きはどんこ列車があるようで、切符売り場が違ったためだ。
ポーは構内のカフェから漂う焼きたてパンの美味そうな香りに、腹を鳴らしていた。
昨夜まで次々と出て来る飛行機の中の朝食と昼食と夜食を食べる気力を無くし、ビールやウイスキーのオンザロックを呑んでいた。
食事がくど過ぎて、胃が拒否していた。相棒は苦も無く平らげていく。
どんな境遇にあっても生き抜く胃を持っていると、ポーはその胃に敬服していた。
戻って来た相棒が『列車内で車掌から買えだってさ』と言って、ポーのリックの編み上げサイドからペットボトルを抜き取り、うまそうに自家製麦茶を飲んだ。
「けいの豆日記ノート」
今回の旅では、トマールのサンタ・マリア修道院を再訪問する目的があった。
トマールは、2002年にも訪問したことがある町である。
以前は、フィルム撮影のため、撮れる写真の数に制限があった。
150本のフィルムを持っていくが、トマールばかりで使うことはできない。
そのときに訪問する全部の町を撮れるように配分しなくてはならないのである。
なので、修道院の外部の写真は撮ったが、内部の写真はわずかしか撮っていなかった。
内部は、暗いこともあり、フィルムを無駄にすることができなかったのである。
トマールにいくには、サンタ・アポローニア駅からの列車が便利である。
列車を使うなら、途中の町も寄ってみようと思い、サンタレン、エントロンカメントに行くことにした。
バスとちがって、列車の旅は、のんびりした感じがいいものである。
《ペットボトル麦茶の作り方》
7時46分、発車時刻表通りに出発した。
ポルトガルの国鉄は時間に正確であることで知られている。
日本人気質なのだ。座席はゆったり広く快適であったが、車窓風景を楽しむ窓ガラスの汚れのひどさには参る。
もう何か月も水洗いしていない窓ガラス清掃状態である。列車ばかりかバスの窓ガラスも汚れがひどい。
時間は正確だが、窓ガラス清掃は日本人気質ではなかった。自国の景観の美しさを大切にして欲しい。
ポルトガルを旅する人びとのためにも、清掃だ。
車窓の右手には、首都リスボンに流れ大西洋に溶けて行くテージョ川が見え、長閑な広大な水田や畑を潤し、左手に大きな近代的工場の建物が連なる。
日本のテレビ報道で知る、ユーロ危機で苦悩するポルトガルの情報をそのまま鵜呑みにできないほどの光景が車窓に展開していた。
右車窓に新幹線並みの特急ポルト行き列車が追いぬいて行った。かつて、この列車に乗っていた時、相棒が気になった駅があった。
それがサンタレン駅舎である。
車中で朝飯を食べた。おにぎりを一つずつ。昨日、フランクフルトからリスボン間で出た飛行機食の、軽食のノリ巻きおにぎりであった。
おにぎりの中身はシャケと梅干だ。やや硬めになっていたが、ポーが食べた梅干握りはうまかった。
でもポーの胃はおにぎり一つでは収まらず、旅の非常食にしている持参醤油味の胡麻煎餅を5枚も食べた。
それに、今朝(けさ)相棒が作った自家製麦茶は冷えてはいないが格別うまかった。
日本から持参してきた空(から)ペットボトルにドイツのフランクフルト空港で買った水を注ぎ、
そこにステック状袋に入った麦茶を入れると溶けて琥珀色の逸品自家製麦茶になる。
この水に溶けるステック状麦茶袋は、相棒が日々の買い物のなかで探し当てた100均店で探し当てものだった。
また、こちらのペットボトル容器は薄くグニャグニャのため、わざわざ日本から持参していた。
ポーと相棒のポルトガル旅は、マイナス極とプラス極がそれぞれの生活環境の中で充電し、それぞれの役目を旅で発揮する。
こう書くとポーも充電しているようだが、ほとんどは相棒の充電効果が役立った。
9時10分サンタレン着。
1時間24分間、一人6.5ユーロ(650円。この旅の間は、1ユーロ100円前後を行ったり来たりだったので、1ユーロ100円で判断のほど)の列車旅である。
その間、相棒は車窓から撮る映像は作品にならないと決め、コンパクトカメラでHP用〈ポルトガルの車窓から〉を楽しんでいた。
(そんなHPを立ち上げるかどうかは不明)
「けいの豆日記ノート」
旅をすると、日本の自然の豊かさを再確認する。
水道の水が飲める国は、日本くらいではないだろうか。
喫茶店で氷の入った水が飲み放題なのは、日本だからである。
ポルトガルでも水道水は、飲めないことはない。
ヨーロッパの中では、湧水もあり、水の質もいい国である。
でも、飲まないほうがいいのである。
長年飲み続けると体によくないらしい。
2リットル水を買って、長い麦茶パックをいれておくと、すぐに麦茶ができる。
普通に使う麦茶パックだと、四角いので、ペットボトルの口から入らないし、出ない。
粉のお茶もあるが、粉が完全に溶けないので、ザラザラ感が残るのである。
なぜか、百均の店でしか売っていないのが不思議である便利商品である。
気が付いていないだけで、ほかでも売っているのかもしれないが・・・
《サンタレン駅舎》
プラットホームに降り立った相棒の視線は、足元の石畳ホームに刻まれた文字であった。
白い石畳に黒縁で囲まれた中に、黒い文字で【SANTAREM】と描かれていた。駅舎のプラットホームに描かれたモザイク石畳が珍しかったのだ。
サンタレン駅舎を正面から見ると、青空に箒で掃いたような白い雲を背景にして、左右対称の白壁にオレンジ瓦の建物が浮かび、
1階の白壁には10枚のアズレージョ(ポルトガル独特の装飾タイル画)が飾られている。
アズレージョの絵柄は、サンタレンの歴史が描かれていた。
アズレージョが描かれていた印象的な駅舎は今まで幾つか出会った。
水の都と言われているアヴェイロの駅舎外壁、第二都市ポルトの鉄道の玄関口サン・ベント駅舎構内壁面、
北部のドウロ川上流のポートワイン葡萄産地ピニャオン駅外壁などが思い出される。
そこにはそれぞれの町にまつわる歴史的な出来事が描かれていた。
サンタレン駅舎のアズレージョ内容を知ったのも、この後、四苦八苦してトゥリズモ(観光案内所)にたどり着き、貰った地図と資料からであり、
また1996年にユネスコの世界遺産に暫定リストに登録された町だとも知った。
サンタレンは頼りのガイド本「地球の歩き方」にも載っていない町だった。
「けいの豆日記ノート」
サンタレンの駅舎は、アズレージョがきれいだという話、最近になって気が付いた。
以前、トマールに行ったときにこのサンタレンの駅は通ったはずである。
でも、記憶にあまりない。
なぜなのだろうか。
目的がトマールであり、エントロンカメントを通って行ったことは、覚えている。
そのときの列車の内部が木で作られていて、とてもレトロであったことで、車内にばかり気持ちがいっていたような気がする。
車内には、人がほとんどいなくて、トイレがポットントイレであった。
便器の下に線路がみえたのを覚えている。
そんなことばかりで、途中の景色をあんまり見ていなかったのに違いない。
《5月の風》
駅前の通りは家並みも少なく街のたたずまいではない。
タクシーが5台も止まっていた。
旅行客などが駅舎から出てくれば、当然タクシーに乗るのが常套のよう雰囲気である。
ポーたちはタクシーを無視してへんぴな駅前通りにあったカフェから出て来たハンチング姿のおじさんに、トゥリズモは何処にあるのかと聞いていた。
「あっちに歩いた丘の上だ」とアクションをまじえ教えてくれた。
『オブリガーダ』と相棒が千代紙の折鶴を説明しながら差し出すと、ニカッと笑った。
鉄道沿いの石畳の坂道を上って行くと前方の丘の上に城壁が見えた。
歩いて行けば1時間近くもかかるとポーは踏んだ。
ポー達の脇をタクシーや乗用車が何台も追い越して行った。
ポーたちの旅は歩いて人に会うのが目的だった。
タクシーに乗っては人には会えない。でも、状況判断から人に会えるとは思えない。
ただのケチケチ精神で、歩くしかなかった。
森林に囲まれた長々と続く坂道はポーの足に堪えたが、相棒の足は軽快であった。
道端に咲く白い花の群生を撮り、背丈の高いポプラの葉っぱが風に吹かれ、そよぐ葉っぱの表裏の色合いがキラキラ輝き、まるで踊るように見えた。
その美しさに相棒はしばし陶酔してシャッターを切った。旅は、時に旅人を詩人にした。
「けいの豆日記ノート」
ガイド本にない場所であったため、グーグル地図で町の道路地図を見ていた。
道路地図なので、観光名所の記載がなく、このへんが不便なところである。
写真などで、たぶんこの辺が市街地なのだろうという予想をした。
列車の駅はかなり離れていた。
道がぐるりとまわっていたので、多分、山などがあって迂回しているのだろうと思っていた。
距離から考えて、30分も歩けば、市街地につけると考えていた。
きっと、リスボンからは、バスが出ているのだろうと思う。
リスボンの近郊地帯であり、住宅地から仕事で通う人も多いでしょう。
こんなに離れている列車では、需要はあまりないのではないかと思った。
バスを探せば、歩かなくてよかったかもしれない。
でも、今回は、サンタレン駅舎を見るのも目的のひとつであったのである。
《丘の上のサンタレン新興地》
駅舎から40分ほど、人にも犬にも猫にも出会わず、坂道を登り切ると目の前に町があった。
大きな裕福過ぎる一戸建てが青空のもとに広がっていた。高級住宅地であった。
ポルトガルの首都リスボンから列車で1時間40分のこの地が通勤地帯とは思えない。
日本の場合なら当たり前の通勤距離範囲であろうが、それぞれの建物には格式とゆとりがあった。
避暑地なら納得できる場所ではある。もし、そうであったとしたら、ポルトガルの一部の人たちの裕福過ぎる環境である。
その点を追及するための取材旅ではない。
12年間ポルトガルを追い求めて来た撮影取材旅は、一重(ひとえ)にポルトガルの人びとに出会い、
その人の〈今〉を映像に切り撮るのが、相棒の続けてきた目的旅であった。
目の前に大きな高い円筒形の建造物が飛び込んできた。当然、相棒は見逃さない。
スタスタ軽快にその塔に歩を進める。丘の上の給水塔のようだ。
塔は半円形に囲まれた石畳の展望台になっており、半円の周辺の眼下には広大な風景があった。
サンタレン駅からリスボン方面に列車が離れて行くのが見えた。
まるで、鉄道模型ジオラマを見ているようだった。
右手には、青い空の下に緑一面の農地が広がり、その中を青いテージョ川の帯が突き進んでいた。
「けいの豆日記ノート」
広場を中心にして、扇形に広がっている住宅地であった。
新しい町なのか、きれいな家々が並んでいた。
郊外には、かならず、学校がある。
黄色で塗られた壁の大きな建物は、やはり学校であった。
市街地のほうから、学生らしき人たちが歩いてきた。
展望台のような建物は、閉められていた。
そのまわりの広場から、下のほうに広がる草原がよく見えた。
サンタレン駅や列車が通る線路がみえた。
こんなに登ってきたんだなあ。
《不思議な教会》
新興住宅地から旧市街地に抜ける途中で、白い石畳の広場に出た。
そこに城塞のようなとてつもない大きな建物が迫って来た。
案内板表示には、Igreja de St.Clara(サンタ・クララ教会)とある。
周りに何もない所に、デンと放置されたような教会だった。
火曜日は宗教関係の建物は休館が多い。
運悪く、その火曜日であった。でも、相棒が分厚い扉を押してみたら、軽くあいた。
拍子抜けした相棒は、ポーを振り返り『私の掌(てのひら)は魔法の力!』と、得意気に吐いた。
偶然を魔力にしてしまうのが、相棒力なのかも知れない。(まっ、いいか・・・)
中に入ると、だだっ広い空間があり、400人は座れるほどの黒光りする木製の長椅子が左右に並び、遥か先に十字架が見えた。
キリスト像もなければ飾りつけもない祭壇である。その十字架の上には明かりとりの装飾窓があり、柔らかい日差しで満ちていた。
高い天井には金箔の装飾やフラスコ画もなく殺風景であったが、それが何故か心地よかった。
祭壇に近づいて気がついた。十字架には、処刑姿のキリストがいた。単純明快な教会である。
振り返ると、広々とした薄暗い空間には、左右の壁に明りとりの細長い小窓がいくつもあり、そこから自然光が差し込んでいた。
その明りだけが、構内の飾りであった。
薄暗い隅っこに人がいた。小さな机で本を読む中年女性がいた。
日本人かと聞かれ、そうですと頷き、折鶴を机の上にそっと置いて、写真を撮ってもいいですかと相棒が聞く。
端正な顔立ちに気品があった彼女は、日本人は・・・と考え、8年振りと言い、写真はどうぞと微笑んだ。
そして、折鶴に視線を落とした。千代紙の図柄が気に入ったようだ。すかさずポーが言葉を追加した。
『日本の伝統的和紙』だと言ったが、日本語が通じるわけがない。
だが、彼女は静かに相棒に言った。「チヨガミ、オブリガーダ!」と。
ありがとう!と言ってくれた彼女は、千代紙を知っていた。
「けいの豆日記ノート」
登ってくる道からも、新興住宅地からも見えていた教会。
とてもシンプルな大きな教会であった。
こんなに大きな教会なのに、中がこんなにシンプルであるのが、不思議であった。
造られた当時の何世紀か前はすばらしい装飾がなされていたのかもしれない。
建物の外観が貴重な建造物なのかもしれない。
わからないことばかりであるが、まあ、いいか・・・
《サンタレンはこんな街》
薄暗く涼しい教会を出て、外の陽射しの眩(まぶ)しさを痛感した。
今日も30℃を越していた。しかし、日本のような暑い夏ではない。
炎天下を歩き続けても、流れ落ちる汗はなかった。空気がさらさらだ。
それにサンタレンは高台の街なので、涼しい風が吹き抜けていた。
旧市街地を歩いてもサンタレンの街は、明るく静かなたたずまいであった。
歴史地区を歩くと、いくつもの建造物が目を引く。
案内表示板も整備され、歩きながら歴史的な教会や修道院を教えてくれる。
世界遺産であるバターリャ修道院の影響を受け、14世紀ごろ建てられたグラーサ教会や12世紀ころ聖ヨハネ騎士団が造ったサン・ジョアン教会、
13世紀に建造された聖フランシスコ修道院などが残るサンタレンは、中世ポルトガルの重要な都市であり、ゴシック建物の都でもあったと知る。
それにしても、前記した火曜休館日だ、内部見学ができなかったのが心残りであった。
街を歩いていて気付いたことがあった。ゴミや吸い殻が落ちていないのだ。
人口6万人と言われている市街である。どの通りにも、路地も公園もきれいで美しかった。
住民35万人と一年中観光客で賑わう首都リスボンの、ポイ捨て吸い殻の多さと比べるのはおかしいかも知れないが、
ともかく歩いていても気持ちの良いサンタレンであった。
「けいの豆日記ノート」
サンタレンのトリズモ(案内所)を道行く人に聞いてみた。
グーグル地図に案内所の記載はないのである。
今回、ガイド本にない場所は、ネットの地図を印刷して持って行った。
道路地図なので、遊歩道の記載もない。
教えてくれた人は、道を足して、案内所の場所の印をつけてくれた。
そのへんが便利なようで不便である。
案内所では地図をもらい、教会とか、博物館とか、教えてもらった。
「ここは、今日は休館日で残念!」
「ここも、休館日で残念!」
といっているだろうジェスチャーの声が聞こえた。
「なんで、火曜日が休みなんだよ〜」
月曜日が休みの博物館は多いのだが、火曜日が休みとは・・・
リスボンから近いので、次回ポルトガルに来た時にしっかりと見ようと思う。
《常設市場》
そんな通りの先に、相棒が発見した大きな建物があった。
相棒が大好きな、常設市場だ。更に喜びを倍増させてくれたものがある。
建物の周りを飾る40枚以上はあるアズレージョ(ポルトガル装飾タイル画)であった。
場内に入る前に相棒は1枚1枚、常設市場を一周し撮りためた。
『絵柄も鮮明、上質の近代アズレージョだね。見た?正面のアーチのアズレージョ、いいね〜。
1930年建造だってさ、ポーは西暦・・・、まっいいか!』言葉を捨て残し、場内に逃げ込んだ。
昼に近いためか場内は閑散としていた。早朝に来ないと市場の雰囲気は満喫できない。
八百屋、魚屋、果物屋、花屋、パン屋など売り手は老いかけたおばさんとおじさんたち。
肉屋は冷蔵庫の関係で小部屋だ。相棒は、1ユーロでアメリカンチェリーを買った。
100円で50粒ほどに、よろけた。魚屋の水道ホースの水を借り、洗って食べた。
ポーは、5粒食べた。あとは、相棒の腹に収まった。
何処からか12時を告げる鐘がいくつもの音色で、心地よく鳴り響いた。
パステラリア・レイと書かれた店の前に、オレンジ・白・オレンジとパラソルが並んでいる。
その左端のオレンジの下で昼食をとった。
献立は、パン・チョコケーキ・エックタルト・リンゴサイダー・サグレス生ビール、計5・15ユーロ。
献立なんて言う漢字を書くのも恥ずかしい限りだ。515円は一人前じゃない。
当然、二人前の昼食代である。髭の親父が、どうだ、旨いか!と店から顔を出し、聞いた。
ポーは応えた。ボン!と言い、右手親指を突きあげた。
ポーの心は、照りつけるポルトガルの青空より清々しかった。(もう一杯、サグレスが飲みたかった・・・)
「けいの豆日記ノート」
フランシスコ教会の前の広場の噴水の向こうにかわった建物が見えた。
壁には、アズレージョ(装飾タイル)が飾られていた。
最初、博物館とか、市庁舎かと思った。
中をちら見すると市場であった。
にぎわっていれば、市場の中を先にみるのだが、そうでもなかったので、まず、壁のアズレージョを見ることにした。
全部のアズレージョを記録しておこうと思った。
1枚ずつ写していく姿は、かわった観光客だと思われたかもしれない。
そんなことは、気にしないのである。
《サンタレン城壁跡》
1500年にブラジルを発見し、のちに植民地の発端をなしたペドロ・アルヴァレス・カブラルは今、この地の前記したグラーサ教会に埋葬されている。
それだけの中世ポルトガルの重要都市であった、サンタレンである。
かつて、サンタレンはナポレオンの半島戦争によって多くの被害を受け、また1755年のリスボン大地震でも多くの被害を受けて来たと聞く。
首都リスボンからテージョ川上流の65キロメートル左岸にあるサンタレンは、19世紀後半から上水道・ガス灯・テージョ川架橋・鉄道の整備などが行われて来た現実がある。
ある意味、恵まれた歴史地区ではあると思う。
ともあれ、この町がガイド本に取り上げられないのは、惜しい。
城跡の公園は広く、芝生や樹木が緑に輝き、市民が木陰で団欒をとっている。
空は限りなく青く、150メートル眼下を悠々と流れるテージョ川は空の青さを水流に青く映し出し、農業大地を潤し流れて行く。
城壁に囲まれた公園には大自然の涼しい6月の風が吹き抜け、サンタレンの街に流れ込んでいた。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2012年8月に掲載いたしました。
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