「ポー君の旅日記」 ☆ 歴史の村々・石積みの家のピオダン ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・8≫
=== 第三章●コインブラ起点の旅 === 歴史の村々・アルガニル郡の隠れ里ピオダン
《三人旅の始まりの朝》
大学の街で知られる[コインブラ]在住のKIMIKOさんの運転で、それも彼女の案内で、山奥の[アルガニル郡]にある、めったに観光客も入らない隠れ里[ピオダン]に向かった。
曇り空の5月26日(土)の8時前、仕事場である幼稚園の休みを彼女は、我らに当ててくれていた。しかも子供たちを昨夕、義母に一日預けていた。
配慮をしてくれた撮影取材旅を彼女が与えてくれたのだ。それが、宿泊2泊を提供してくれたKIMIKOさんの優しさである。
三人旅が始まった。
(彼女との出会いは、 紀行文・7 をご覧ください)
KIMIKOさんの斜め右に設置されたカーナビは、日本でポーが使っている安売りより更に単純画面で、進行する道は線が一本走っているだけで後は真っ白。
勿論、案内嬢の進路を告げる的確な親切な声も流れてこない。
だが、その不安をものともせず彼女は西に向かって走った。
目的のピオダンまでは地図上では50キロメートルだが、実際は山間の坂道をうねりうねって走ったので、実際は100キロメートル以上もあった。
その途中、アルガニル郡に入る前に彼女は左運転席でブレーキを踏んだ。
40分後の8時40分。そこは、[ローザン]という町であった。
「けいの豆日記ノート」
KIMIKOさんと知り合ってから、何度もメールでやり取りをしていた。
幼稚園のことも、わかりやすく丁寧に説明をしてくれていた。
幼稚園訪問の次の日は、休日なので、どこかに連れて行ってくれるという。
候補地は、いくつもあったが、せっかくのチャンスだったので、ピオダンという村に行きたいと思った。
ピオダンは、ガイドブックには、載っておらず、最近まで知らなかった村である。
ある人のブログで、石積みの家が並ぶ小さな村の写真を見て、いつか行ってみたいと考えていた。
でも、交通の便がすごく悪いところだったので、車でないと行けない場所であった。
コインブラから車でも1時間以上かかりそうであったので、運転するのがたいへんだと思っていた。
申し訳ないと思いつつ、メールで話してみたら、OKしてくれた。
場所なども調べてくれて、とてもありがたいと思っている。
《ローザン》
朝日を斜め後ろから受けた教会の脇で車を降りる。背の高いKIMIKOさんが大きく背伸びして身体をほぐす。
運転ご苦労さまである。教会のまえにカフェがあり、小さな商店街になっている。ここがローザンの中心地のようだ。
カフェ横のベンチが2人の老人の指定席かも知れない。朝日を体いっぱいに浴び、朝から何を話題に話しをしているのだろう。聞きたいものだ。
教会があれば必ず中に入る習性がある相棒。扉を押して潜り込む赤い帽子を目撃。目が離せない。
取材時には必ず赤い帽子をかぶるのが約束だ。赤い帽子をかぶる人をポルトガルで見たことがない。簡単明瞭、赤い帽子は相棒の目印であった。
中に入ると外観で予想したより細長く広く、両サイドの壁はアズレージョ(ポルトガルタイル画)が施され、
大きめの天窓から朝日が流れ込み、300人は座れる磨きあげた木製長椅子を包む。
前方の席で祈る女性の姿が浮かぶ。
朝の教会は清々しく、願い事が叶いそうな雰囲気があった。
車の脇で地図を広げて見射るKIMIKOさんを誘ってカフェでガラオン(ミルクコーヒー)を飲む。休憩20分で、9時出発。
「けいの豆日記ノート」
ピオダンまで行く途中に小さな町や村がいくつもあるという。
ただ、ピオダンに行くだけでは、物足りないと思ったのか、途中の小さな村にも寄ってくれるという。
町や村の場所も初めて聞く名前ばかりである。
どこがどの町であったのか、わからなくならないように、聞いてはメモをしながら、進もうと思った。
こんな小さい村にも行くことができて、うれしい限りである。
《アルガニル》
40分ほど農業地帯を軽快に走り抜け、アルガニル郡の中心地[アルガニル]の町に9時40分に着く。
標高169メートル、人口14000人ほどの町である。なにせ、ガイド本に載っていない地名ばかり。
データ―収集は、勿論案内役をかってくれたKIMIKOさんからだ。車を降りると、街中に飛び出し、情報収集をしてくれる。
この旅は、三者三様なのだ。写真を撮る人、情報収集をする人、紀行文を書く人の三人旅である。メインストリートには観光客もちらほら見られる。
商店のウインドの飾り付けも華やかだ。
キティちゃんグッズ専門店もある。白い壁にオレンジ屋根のたたずまいも見慣れたポルトガル風。
その中を歩くと初めての地に踏み込んでも、安堵が胸に沁み込んで来る。
路地に並ぶテーブルや椅子を磨くレストランのおじさんたちの機敏な動作からも、日々活発に生き抜くエネルギーが感じられる。
決して大きな町ではないが生活の息吹があった。
これから行く山間の村々で住む人たちの心の安らぎの場であり、日常生活用品を調達する大切な基地なのかも知れない。そんな気がした。
小さなスーパーマーケットの店頭に、赤いリンゴ、青いリンゴ、キウイ、サクランボ、大きなイチゴなどが並び、
ジーンズ姿の親子が5ユーロ(500円)でビニール袋いっぱいにサクランボを買う。
赤い帽子が視界から消えていたが、ふたり旅でない三人旅のせいか心にゆとりがあった。
きっとKIMIKOさんと連れで撮影を楽しんでいるはずだ。
30分後約束の時間に車に戻ると、ふたりはいた。小さく、ホッとした。
「けいの豆日記ノート」
アリガニルの町は、ピオダンを含むこの地方の中心の町である。
町並みは、ほかのポルトガルの町と同じような感じであり、メイン道路は、遊歩道になっており、花も飾られていた。
市庁舎のある広場や教会もあり、きれいな町だった。
でもやはり、規模が小さいので、少し歩くと、もう郊外のようで、緑の山に向かう車道が見えてくる。
曇り空なのが、残念であった。ピオダンに着くまでに、青空が出てくれるといいなと願っている。
《コージャ》
道が坂道になると、緑であふれた視界がフロント越しに迫ってくる。そして、道が急に狭くなり山道に入って行く。
視界が広がると、車は丘陵の中腹を走っていた。木々の間からオレンジ屋根が下方に見え隠れし、その向こうに緑の山並みが広がっていた。
KIMIKOさんは、ふゥ〜と息を吐き、背筋を伸ばす。
ガードレールもない狭い山道の運転に慎重だった。坂道を下ると、水量がある川があり、レンガ積みの眼鏡橋が車窓に見えてきた。
橋を渡った対岸沿いには白い壁にオレンジ屋根の美しい家並みが続き、川面に自然に溶け込んだ家々の景観を映し出していた。
そこが、[コージャ]という町であった。アルガニルの町から30分ほどだったが、運転は気疲れしたことだろう。
両岸がきれいに石積みされた小川沿いの大きな柳の木の下に車を止め、KIMIKOさんは運転席で地図を広げ、腕時計を見る。
30分ほどの探索に決めた。11時10分に次の町ベンフェイタに向かうことにした。目的地のピオダンは、まだまだ先だ。
コージャの町には水量のあるアルヴァ川と丘陵に囲まれた石積みの小川が流れ、その両岸に洒落た民家が連なる細長い町であった。
でも、辺鄙な地にまるで別荘地並みの家々が建ち並んでいようとは想像もしなかった。小川沿いを3人で歩く。
両脇を丘陵が迫った青空には、白い雲が長閑に流れ、小川のせせらぎしか聞こえてこない。ここに住む人たちの生活は裕福そうに見える。
各家のたたずまいがそう物語る。住む人影はなかった。不思議な町である。
地図には、カフェ・レストラン・病院・教会・郵便局・ガソリンスタンドなどの絵文字が並んでいるが、その気配がない。
教会と郵便局だけは確認できた。小川から離れ、丘のふもとまで拡がる住宅地に踏み込む。
コンクリート道路沿いの石畳み歩道には、雑草が伸びている。歩く人もいないようだ。
「けいの豆日記ノート」
車で走っていると、目の前にメガネ橋が見えてきた。
川があり、その川には、対岸の町並みが映っていた。
河原には、なぜか小さな教会があった。
大雨などで水量が増えれば、すぐに浸水してしまいそうな場所である。
ひょっとしたら、水害で亡くなった人を弔うため教会なのかもしれない。
《ベンフェイタ》
オリーブと農作物の谷間の町[ベンフェイタ]には、20分後の11時30分に着く。
丘陵地帯をうねうねと狭い緑一色に囲まれた狭い道を、KIMIKOさんのハンドルさばきも軽快に進む。教会の鐘が聞こえた。
ベンフェイタの町はこじんまりとまとまっていて、狭い石畳みの路地でつながっていた。生活の香りと人の温(ぬく)もりが伝わって来た。
坂の途中に、カフェがあった。喉も乾いていたし、手足を伸ばしたかった。
運転している時は、3時間走っても疲れを感じない運転大好き人間ポーだが、後部座席は慣れていない。
走行する視野の狭さが、駄目なのかもしれない。すんなり、カフェに引き込まれた。
カウンターで若い父親がサグレス瓶ビールをダイレクトに飲んでいる。5歳児ぐらいの少年が父親の首にかじり付いている。
店内に入るや、相棒のシャターが鳴る。そして、微笑みかけ折鶴を渡し、セゴニャ(鶴)と言って少年に渡す。
少年は、はにかみ、父親がオブリガード(ありがとう)といい、日本人かと聞く。シンシン(はいはい)と相棒が頷く。
女性ふたりは、ガラオン(ミルクコーヒー)。ポーは勿論、ガラオンより安いサグレス瓶ビールだ。
グラスに注ぎ、グイと飲む。喉越しがいい。運転しない、今をありがたく思う。
窓の外に少年と少女の姿を発見した相棒は、飲みかけたガラオンをテーブルに置くと、外に飛び出して行った。
相棒は人物に飢(う)えていた。
ポルトガルに撮影に来る目的は、ポルトガルの人びとの日常姿が撮りたいからだった。
30分後の11時に車に乗り込む。車中でKIMIKOさんが調べて来てくれた、ベンフェイタ情報を聞く。
それは、心を揺り動かせた。谷間の町ベンフェイタで、1943年5月7日、1620回の鐘の音が鳴り響いたというのだ。
第二次世界大戦に参戦せず中立を守ったポルトガルと第二次世界大戦終結を記念して、1620回の鐘がこの谷間の町に響き渡ったのだった。
(日本では、第二次世界大戦勃発は1939年、終結は1945年)
なぜ、1620回打ち鳴らしたのか。その時は、鐘の音が鳴り響く谷間の町の情景に心を奪われ、回数の疑問まで頭が回らなかった。
今度会った時は、恥ずかしながら聞いてみたいとポーは思う。
「けいの豆日記ノート」
小さなカフェに入る。
トイレ休憩のためもある。
このカフェは、店の中に屋根が作ってあった。
店の中にまた店がある感じである。
けっこうこだわって店を作っているのだと思った。
カフェのカウンターの中には、車いすの男性がいた。
体が不自由でも働ける場所があるということ、すてきだと思った。
窓の外で、大きな車輪のトラクター?が止まっており、子供二人が乗っていた。
お兄ちゃんと妹のように見えた。
店の中に女性が入ってきたので、お母さんが運転してきたのだろう。
はじめは、お兄ちゃんが運転手役だったが、交代して妹も運転手役になった。
いつも頼もしいお母さんの運転を見ていて、あこがれなんだろうと思う。
《段々畑の集落》
坂を上って行くとコンクリートの2車線道路が走っていた。標高400〜500メートルはあろうか。
左手車窓からは何か所も、白壁にオレンジ屋根の集落が谷間に見えた。その背景の山の向こうにも、幾重もの山並みが続いている。
対向車も追いぬいて行く車もない。路肩に車を止め、降りる。風が強い。それに、寒い。大きな白雲の塊が頭上を飛び去って行く。
相棒は段々畑に囲まれた斜面の集落を撮る。川も溜池も、電柱も電線も見えない。
ここに住む人たちは、何十年、何百年もどのようにして日々の生活を営んできたか。
右手前方の山並みに風力発電装置が12基ほど強い風で音をたてている。各集落はこれらの風力発電から電気供給されているのだろうか。
さてさて、目的地ピオダンは、どのような集落なのだろうか。
「けいの豆日記ノート」
山道を走るといっても山の中の木の間を走るのでなく、山の稜線を走っていた。
なので、遠くの山々が見えて見晴らしがとてもいいのである。
向かいの山の中腹の小さな村々も見ることができた。
その中で、段々畑を発見した。
白壁にオレンジの屋根の集落の下に広がる緑の段々畑である。
止まって車から降りて撮影したい ・・・ でも、道路は、駐車することができない。
かなりのスピードで走っているので、止まると後ろから追突されるのである。
ラッキーなことに車は見かけず、対向車もたまにしか通らなかった。
なので、少しだけ止めておろしてもらった。
ポルトガルで段々畑の写真が撮れるとは思ってみなかった。
後日、名前を調べようとグーグルマップを見たがわからなかった。
それほど小さい村である。
グーグル3Dマップを初めて使ってみた。
Mourisiaという村らしいことがわかった。
《ピオダン》
KIMIKOさんが運転してくれる自家用車は、慎重にガードレールもなく電燈もない山道を、奥へ奥へと走り続けた。
ベンフェイタの町から1時間が過ぎた13時05分 『ピオダンが、見えた!』とつぶやき、ゆっくり路肩に止め、ハザードランプを点滅させる。
遥か眼下の山の斜面に、しがみつくようにして50戸ほどの集落が段々畑に囲まれていた。しかし、今まで見た白壁にオレンジ屋根ではなかった。
薄汚れたマッチ箱を縦に立てたような家並みであった。雨が降る薄暗い時なら、溶け込んで見逃していただろう。
相棒の撮影を待って、更に車を走らせ、くねった坂道を下って行った。
集落に着くまでKIMIKOさんは、3回も車を止めてくれた。そんな配慮は案内人の優しさだった。
俯瞰で見える集落は、すべて石造りだと知らされた。まるで1家1家が舞台に立つ役者のように凛(りん)として見えた。
日本からわざわざ君たちに会いたくてやってきました、と一声かけたくなるポーがいた。
コインブラのKIMIKOさん宅から5時間20分、[ピオダン]の石畳の広場に駐車した。石はこの地で産出する独特な平板石である。
平板石で造った土産売り場のおじさんは我ら3人に声をかけてきた。久しぶりの観光客なのかもしれない。足を止めずに素通りする。
買わないなら、立ち止まってはいけない。マナーである。
集落は坂に沿って奥に延びていた。石畳の路地も、家に入る階段も、入口の扉周りも、壁も屋根も、すべて平板石を重ねた石積み工法で造られていた。
石と石の間にセメントを使わない古来からの石工(いしく)工法である。
石積み工法は、イギリスが有名であるが、この地ではどんな過程で生み出し、造形して行ったのか。
また、ピオダンに住む人々の先祖はこの地に何時頃から移住したのか。
ポーは、その歴史が知りたかった。
(真っ白い教会は19世紀にたてられた記録はあった)
「けいの豆日記ノート」
あこがれのピオダンの村に到着した。
今までのポルトガルの集落のイメージとは、ぜんぜん違っていた。
石で造られた家は、見たことがあるが、大きな岩であったり、丸い石であったりした。
平石は、モンサラーシュの壁の一部で見た感じはあるが、家全体が平石で積み重ねて造られているのは初めてであった。
トリズモ(案内所)に行っても地図は、アルガニル地域全体のものしかなく、ピオダン村の地図はなかった。
小さいので、地図を作る必要もないのかもしれない。
カフェで休憩したときに見たのだが、雪が降った後のピオダンの村の写真が貼ってあった。
ポルトガルでは、雪はめったに降らないと聞いていたが、これだけ山に入ると冬は寒く雪も降るのだろうなと思う。
雪が降ったら、あの山道は、走れないと思う。
《隠れ里ピオダンとは》
ピオダンは、かつて隠れ里とも呼ばれていたと聞く。もしかしたらだが、テンプル騎士団の落ち武者がいたのではないか、とポーは思う。
13世紀ヨーロッパで活躍していたテンプル騎士団はフランス国王に弾圧され、フランスはもとよりドイツやスペインなどの騎士団は処刑されたが逃げ切った騎士もいる。
ポルトガルに逃げ切ったテンプル騎士団は、キリスト騎士団と名を変えポルトガル各地の城塞を建立している。
最たるものは、[トマール]にあるキリスト修道院だろう。その団長をしていたのが、ポルトガル大航海時代を築き上げたエンリケ航海王子である。
そのテンプル騎士は石工の集団でもあり、石工は石造建築の高度な職人だったとも言われている。
13世紀に逃げ切ったテンプル騎士が隠れ住んでいたのでは、というポーの予測。この地ピオダン誕生の起源が知りたいものだ。
もうひとつ確かな情報がある。[アルコバサ修道院]に眠る悲恋の伝説の主役、イネスとペドロ一世の棺だ。その物語をお聞きください。
・・・・・・≪ペドロ王子とイネスの悲恋≫劇場・・・・・・・
【第一幕。アフォンソ4世の子、ペドロ王子は父のすすめでカスティーリャ王国のコンスタンサ姫を妻として迎えた。
ここまではハッピーな話だが、悲恋が隠されていなければ恋物語に進展しない。
実はこの結婚は政略結婚だったという。
昔も今も、よくある話だが、コンスタンサ姫がお供に連れてきた従女イネス・デ・カストロに、 ペドロ王子は恋焦がれてしまったのだ。
従女イネスは《ローマの休日》のオードリーみたいに可憐で気品があったのか。
しかし、コンスタンサ姫も可愛そう。
政略結婚とはいえ、姫にも、国に恋しい人がいたかもしれぬ。
しぶしぶ親の頼みをうけ、泣きながらこの地に来たかもしれない。
悲しさの余り、その顔は打ち歪んではいなかったか。
また、従女イネスは思いもしなかった王子の甘いささやきに戸惑い、苦悩したに違いない。
彼女は己の立場をわきまえていた。そんな女性だったかもしれぬ。
しかし、王子の熱き瞳に、負けた。恋に落ちてしまった。
だが、父アフォンソ4世の激怒でふたりの仲は引き裂かれてしまう。
もう、オペラの世界だ。ふたりの甘く悲しい恋歌は、やがて別離の絶叫となり、暗転・・・・。】
【王子は姫と結婚。でも、姫は産後の経過が悪く、若くして亡くなったという。
姫は知っていたに違いない。王子の心の中には、イネスが住み着き離れられないでいたことを・・・・。
そして、ペドロ1世は周囲の反対を押し切り、イネスを側室に迎える。ふたりは3人の子供をさずかる。
ふたりにとっては幸せな日々であったに違いない。
だが、ペドロ1世によって、思いも寄らぬ幕が切って落とされた。イネスと3人の子供の暗殺だった。
亡くなった姫の里、カスティーリャ王国の圧力を恐れたアフォンソ4世とその重臣たちが暗殺に走ったのだ。】
【第二幕。ペドロ1世が王位を継承。彼の心の中には、怒りと憎しみの炎が燃え枯れてはいなかった。
暗殺に関わった重臣たちを処刑した。関与した重臣たちの中には察知して逃げた者もいたという。
その後、アルコバサのアルコバサ修道院で亡きイネスを王女であることを教会に認めさせたのだ。
イネス暗殺から10年後、ペドロ1世もこの世を去る。
彼の遺言でふたりの棺はアルコバサ修道院で、今も並んでいる。
(ちなみに、イネスが暗殺されたという《涙の泉》とイネスが住んでいた館が大学の町・コインブラに残っている)】
かつて王の命令によりイネスとその子供たちを殺害した重臣たちが、ここピオダンの里に身を潜めていたと言われている。
それは、14世紀のことであった。これが真実ならピオダンは、14世紀にはすでに存在していたことになる。
《シャンスティエグアとフォスティエグア》
14時30分、憧れの地ピオダンを後にした。1時間半のピオダン散策は有意義であった。ポーは一人歩きだった。
相棒とKTMIKOさんは連れで撮影していた。レストランでサグレス生ビールを飲みながら、ピオダン紀行の構成を考えていた。
トゥりズモ(観光案内所)で、地図と資料を貰い、2階の展示室でかつてピオダンの人びとが使っていた農具や日常生活用品などを見て回り、
19世紀に建てたという教会にも入ってみた。
広場をぶらぶらしているところに、ふたりが戻って来た。車に乗って帰路に着く。
帰り道、ピオダンから10分のシャンスティエグアと、さらに10分のフォスティエグアで散策する。
もう何を見ても心が躍らない。なにせ、ピオダンを堪能した後だ。
つり橋のかかった私有地も、心は抜け殻。なにも響いてこなかった。つまり、ピオダンが強烈過ぎたのだった。
「けいの豆日記ノート」
ピオダンから、すぐ近くに村があるというので、寄ってくれた。
KIMIKOさんが事前に調べてくれた資料に気になる村があったので寄ってくれたのである。
車で走っていると、つり橋のようなものが見えた。
ポルトガルでつり橋って・・・? びっくりだったが、渡ってみることにした。
なんと個人で作った橋らしい。
「私有地ですが、どうぞご覧ください。」という太っ腹な看板が出ていた。
高いところが好きなのでつり橋も平気であった。KIMIKOさんは、もっと平気でどんどん先に渡っていった。
この辺の山一帯が自宅の山らしい。山の頂上には、マリア様を飾るアーチや池が石積みで造られていた。
週末の休日に、コツコツと造ったらしい。
すごいものである。
《Obrigado!KIMIKOさん》
ありがとう!KIMIKOさん。まる1日、運転と案内役をありがとう。
18時にKIMIKOさん宅に着き、旅行バックを車に詰め込み、今夜の宿ホテルアルメディナまで送っていただいた。
19時過ぎまで、今日一日、11時間を本当に、ありがとう。
KIMIKOさんに感謝のハグをしたつもりが、背丈の高いKIMIKOさんにハグされた形になってしまい、Obrigado!
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2013年2月に掲載いたしました。
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