「ポー君の旅日記」 ☆ 独自の風習を残す漁師町のナザレ2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2013紀行文・3≫
=== 第二章●ナザレ起点の旅 === 12年振りのナザレ2
《ナザレとの出会い》
ポルトガルのりスボン空港に着いた。腕時計の針を9時間左に戻した。名古屋から20時間ほどの空路の旅だった。
ポルトガルとは、時差が9時間ある。昨日4月30日(火)、愛知県知多半島にある焼き物の町、
常滑市の伊勢湾海上に浮かぶセントレア(中部国際空港)から午前10時に飛び立った瞬時、眼下に新舞子海岸通りを確認し、
ドイツのフランクフルト空港で乗り換え(便によって、3〜6時間ほどの待ち時間がある)、
ポルトガルの首都リスボンにあるリスボン空港に着き、すったもんだがあり宿に入ったのは23時過ぎだった。
今日5月1日(水)のメーデーの祭日は、早朝から忙しかった。
6時前に起き、共有のキッチンで自給自足のモーニングを食べ、7時10分フィゲイラ広場に接した安宿から広場を横切り、
ロシオ駅からグリーンラインの地下鉄に乗ればふた駅で行けるカイス・ド・ソドレ駅には15分もかからない。
だが時差ボケ知らずの写真家の相棒は、早朝のリスボンを撮りたかった。
陽射しが建物の上部を射るテージョ川沿いの路地を撮影しながら1時間20分もかけ、目的のカイス・ド・ソドレ駅に着き、9時発の列車に乗った。
かつて、漁師の町であったが今は観光客も一年中やって来るリゾート地となったカスカイスに向かい、波模様の白黒の石畳を敷き詰めた路上を楽しむ。
そして、絵本のようなカスカイスの町を楽しく散策した。
5時間後、リスボンの安宿に戻り預けておいた重い旅行バック2個を受け、タクシーを飛ばしセッテ・リオス・バスターミナルから17時発の長距離バスに飛び乗った。
このバスは、北のスペイン国境に近いヴィアナカストロ行きで、途中下車したのは再訪の漁師町、ナザレであった。
ナザレの名を初めて知ったのは、20歳の冬だった。東京京橋にある明治屋本店で冬のアルバイト(時給240円)終わった後、
ふらり寄ったフランス映画が見られる資料館で偶然見た、モノクロ映画「過去を持つ愛情」だった。
その作品の中で流れるメロディー♪暗いはしけ♪の歌声が心に沁み込んで来た。
声の主(ぬし)はポルトガルのファドの歌姫アマリア・ロドリゲスだという。
ポルトガルのファドと漁師町ナザレの地名をその時初めて知った。その夜は、イヴだった。サンタがくれた映画であった。
ポルトガルに来たら行きたいところが3か所あった。
映画で知ったナザレと、沢木耕太郎さんの作品「深夜特急」で知ったポルトガル南端の端っこにあるサグレス、
それに作家・檀一雄さんが「火宅の人」の最終章を残したまま1年半ひとりで住んでいた大西洋を眼前にしたサンタ・クルスである。
そのナザレには2002年に、サグレスには2003年に、サンタ・クルスには2006年に行った。
【参考ページ ・ ナザレ1 ・ サグレス ・ サンタ・クルス に掲載されています】
「けいの豆日記ノート」
最初の計画では、リスボンに2泊する予定であった。
ナザレ近辺には、見たい場所が多くあり、少しでもナザレにいたいこともあり、1泊早くナザレにくることにした。
ナザレは、2回目の撮影取材の旅で訪れて以来、来ることがなかった。
新しい町を優先してしまい、1度来たナザレを後回しにしまったこともある。
ナザレ、アルコバサ、バターリャ、カルダス・ダ・ライーニャは、再度、訪問したいと思っていた町である。
もう12年も前の話になるのだと思うと、月日の経つのは早いものである。
《長い撮影旅路》
後日来る予定のカルダス・ダ・ラィーニャのバスターミナルからひと丘越すと眼下に、真っ青な大西洋が迫る。
その海の碧さと広い砂浜に沿って長い海岸線道路が延び、海岸線に沿って映画で知った漁村ナザレの町並みがあり、
その先に高い岸壁がそびえ、その上にも町並みの景観を目撃すると、長距離バスは坂道をゆっくり下って大西洋岸の手前で停まった。
リスボンを発ってから1時間40分だった。
通りの右手にあるナザレのバスターミナルに18時40分に着く。
太陽はまだ日本では時計の針が3時で輝いていた。
12年前にはバスターミナルの前に常設市場があったが、その姿がない。
どう見ても小さな小屋のターミナルというより、露天のバス停留場であった。
降りた長距離バスは海に向かい、海岸線道路を右折して走り去った。
つまり、野外バスターミナルはナザレの町外れにあり、予期せぬ空間に我らは残されたのだった。
町中にあったバスターミナルは工事中なのかも知れない、と相棒が悔しそうに吐いた。
12年前に来た時はバスターミナルから200メートル近くも、海岸線の石畳道路をがらがら重い旅行バックを両手でふたつ転がして、ホテルまで運んだ苦い経験があった。
そのため今回、相棒はバスターミナルから近いホテルを予約した。相棒のやさしい配慮だった。
仮設小屋バスターミナル事務所で貰って来た地図を見ながら、相棒はプンプンとご機嫌斜めだ。
バスターミナルは町の外れだった。しかも、今夜の宿であるホテル・アデガ・オセアノまで、どう見ても200メートルはあった・・・。
相棒の心根の優しさの計画配慮が吹っ飛んだのだった。
ガラガラと旅行バックの小さなコアが、今回も石畳に左右に喰われた。
ナザレの大西洋海岸道路に出るまで10分近くもかかった。バックを握る右手の指がしびれ固まった。
痛さに痺(しび)れた。相棒に言った。無理するな、ふたつ転がすからと。
しかし、相棒はニカッと笑み、13年前のすぎさんじゃないからね、ありがとうと吐いた。
そのすぎさんは・・・明治屋本店のアルバイトでご察知のように70歳をとっくに過ぎていた・・・。
もう、13年もポルトガルを相棒と撮影取材の旅を続け、毎年《愛しのポルトがる写真展》を暮れの12月に《名古屋市民ギャラリー栄》で続け、
今年も13年連続の暮の個展写真展示会が暮の3日から8日までが待っていた。
つまり、ポルトガルの人びとの今の姿を見てもらいたいがための撮影取材旅を今年も続けていた。
「けいの豆日記ノート」
今回のホテルは、ネットから予約した。
何軒か候補のあるうちで、バスターミナルから近くて、安いホテルを探した。
海岸沿いにあるホテルで、テラスから夕日が見えるホテルであった。
テラスが海向きの部屋は料金が高いが、他の部屋の共通の廊下のテラスから海を見ることができる。
1階には、レストランもあり、食事は1割引きというのにもひかれた。
まさか、バスターミナルは工事中だとは思わなかった。
《浜辺の宿と落日》
大西洋を目の前にした懐かしの海岸通りに出た。
相棒がもらってきた地図を見て今夜の宿まで、あと100メートルはあると言う。
幅広い砂浜が続く海岸通りを重い旅行バックをガラガラとふたりで転がした。左手砂浜の先に大西洋の波が打ち寄せている。
100メートル旅行バックを転がす間に何人ものおばさん達が近づく。
この地独特の重ね着衣装を着たおばさん達の呼び込みが明るく賑やかに飛び込んでくる。
おばさん達には、日々の家族を守る熱気があった。
ポルトガルの女は早朝の市場で働き、砂浜でイワシを裂き干して海岸通りで観光客に売り、ホテルの勧誘や露店で焼き栗や豆を升で売っていた。
女は高齢者でも働き者だったが、男の高齢者は早朝から公園のベンチの指定席で仲間とのんびり語る日々を送っていた。
ナザレは遠浅のもってこいの海水浴砂浜の地形だった。
海岸通りから砂浜幅が100メートル以上もあり、その先に大西洋の海があった。
この景観が漁師町からリゾート地に変身させた。
その景観を目の当たりにする今夜の宿は、0階がこの町の名高いアデガ・オセアノ・レストランで、1階(日本では2階)からが宿であった。
その1階奥に今夜の部屋があった。部屋の窓を開けると海の見えない狭い石畳の路地が走っていた。相棒が安さで選んだ部屋だった。
なにせ、長年の取材旅。文句の一言も言えぬケチケチ旅だった。
狭い路地の向かい窓で夕食を作る主婦の姿があった。
子どもの声が聞こえる距離だ。部屋に荷物を置けば、外にすぐ飛び出す何時ものパターンだった。
20時半過ぎ、ナザレの海に落ちて行く夕陽を見た。
12年前には、見られなかった落日を堪能した。
涙を流しながら目の前の大西洋に静かに落ちて行く太陽にシャッターを切る相棒がいた。
感動しながらシャッターを切るその顔に夕日が映えた。
でっかい太陽の上部が白く、その下に朱色の半円の太陽が海面に沈んでいく。
太陽の姿が見えなくなるまで見つめた。神秘的であった。こんな落日は、二度と見られないかもしれないとさえ思った。
夕食を食べた。宿の0階のレストランの隅っこで。
そこしか空いていなかった。夕陽を望めるレストランは満員だった。
鰯の炭火焼き(6.5ユーロ)、鳥肉半分焼き(7.5ユーロ)、生ビール(1.5ユーロ)、冷たい水1.5L(2.0ユーロ)、合計17.5ユーロだった。
生ビールより相棒が注文した水の方が高かった。
会計のレジで1.75ユーロ値引きされていた。宿泊客へのサービスであった。235円の値引きに相棒は微笑んだ。憎めない笑みであった。
「けいの豆日記ノート」
夕日は、見たいと思っても、思うように見ることができないのものである。
ナザレに3日泊まるので、そのうち、1日でも見ることができればラッキーだと思っていた。
初日から、夕日を見ることができた。
雲がないせいもあり、さっぱりしすぎの感じもあったが、夕日にはちがいない。
初日の夕食は、ホテル下のレストランで食べることにした。
ここは、レストランが主で、ホテルがついでのような気がするくらい、レストランは繁盛していた。
オマールエビやカニが泳ぐ大きな水槽があり、新鮮さは、保障付きである。
高そうなエビを横目で見て、注文はイワシであった。
イワシだけにすればよかったのに、チキンまで頼んでしまった。
魚介の店に来て、チキンを頼むとは・・・
チキンを焼くのに時間がかかったのだろうか。
30分以上待たされた。
やはり、チキンもイワシも残してしまった。
これからは、1人分にしようと戒められた夕食であった。
《翌朝の市場》
レストランの隅で翌朝5月2日(木)、モーニングを食べ市場に向かう。
8時だった。12年前に寄った市場は健在だ。市場の前にあったバスターミナルの建物は工事中であった。
相棒が配慮した通り、宿から5分もかからない位置にバスターミナルの建物はあった。
相棒の記憶力には何時も驚くおいらであった。一度行った現地の地図が明確に脳裏に残る、まるで犬みたいな臭覚を秘めていた。
ポルトガルの各地を歩き回り、その度に長年市民の日々の生活の糧(かて)であった市場が衰退して行く現状を見て来た。
大型スーパーマーケットに喰われて行く姿を見ると悲しかった。
日本でも従来の商店街が寂れていく姿に気を揉んでいた現実がポルトガルにも起きていた。
それがナザレでも起きているのではないかと。しかし、ここの市場には活気があった。
市場に入った瞬間、安堵した。
しかし、元気のよい明るいおばさん達の声は生きていたが、ミカン、リンゴ、イチゴ、トマトに野菜軍が並んでいた平台には空きが多かった。
魚介類の平板は元気だった。
イワシは勿論のこと銀色と黒い太刀魚、タイ、生タラ、ポルトガルの常備食干しタラ、キン目、平目にカレー、烏賊に蛸、名前のわからない魚群が沢山並んでいた。
さすが、漁村のナザレだった。ナザレの市場の周辺路地では、あの重ね着を着たおばさんやおばあさん軍団が木箱に魚を並べ路上で売っていた。
異様な光景だった。市場で買うより少しばかり高値で売っていた。
しかし、足が弱くなったおばあさんたちは市場まで歩かなくても魚介が路地で買えた。
ナザレの流通は働き者の女たちで成り立っていた。
10時50分、あの露天ナザレバスターミナルから日帰りで、気になっていたバターリャに向かった。
バターリャは、ポルトガルに来たら絶対寄ってもらいたい町であった。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2014年4月に掲載いたしました。
|