「ポー君の旅日記」 ☆ ファド「暗いはしけ」のナザレ3 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2013紀行文・7≫
=== 第二章●ナザレ起点の旅 === 3泊した♪暗いはしけ♪のナザレ3
《ナザレを知った日》
ナザレという地名、それがポルトガルにあると初めて知ったのは、20歳の暮だった。
東京の京橋にある明治屋本店で、夏と冬のお中元とお歳暮シーズンの各1カ月をアルバイトでお世話になった。
それで、前期と後期の大学の授業料が払えた。親の意に反して、芸術学部映画学科を受験したツケだった。
そんな12月イヴの夜[フランス映画の館]にある、50名ほどの試写室に立ち寄った。
5年前の気になっていたフランス映画作品が上映されることを、新聞で知った。暮の寒い夕方だったが、客席は9割方が埋まっていた。
上映作品は、1954年作のフランス映画《過去を持つ愛情》だった。映画の内容は男と女の悲恋物語。
それぞれが配偶者を殺してしまったフランス人の影ある男と女が、偶然ポルトガルの首都リスボンで出合い恋に落ちる。
よくある筋だが、しかし斬新なカットの数々に唸った。
そのふたりが大西洋に面した海岸沿いに広がる漁村ナザレを訪れるシーンで、歌われる切ない女性の歌声が映画の美しさを盛り上げた。
そのメロディーは「ファド」と呼ばれ、ポルトガルのファドの歌姫と言われているアマリア・ロドリゲスの歌だと、その時初めて知った。
歌は、心を突きさした。♪暗いはしけ♪が耳に残った114分の映画だった。今にして思えば、『過去を持つ愛情』はヌーヴェルヴァ―グの走りともいえた。
その頃1959年、フランス映画はヌーヴェルヴァーグ元年と言われた。
そのフランス映画が若者の心を刺激した時代であった。映画『大人は判ってくれない』や『勝手にしやがれ』が上映された頃だった。
当然おいらも劇場で見ていた。大学のシナリオ研究会でも話題になり論じ合ったものだ。
日本では、大島渚がこのヌーヴェルヴァ―グの波に乗って、売れっこ監督になる。
1960年「青春残酷物語]や「太陽の墓場」で松竹のヌ―ヴェルヴァーグの旗手となっていた。
その監督がこの年、大学に講師として呼ばれ、フランスのヌーヴェルーヴァーグが日本映画に及ぼした功罪の話になった時、80人程の学生のなか、一人の学生が質問した。
「大島監督は、日本映画を大きく変える新しい感覚の映画監督だと尊敬しています。
でも、ヌーヴェルヴァーグに便乗した波乗り名人だとはおもいませんか!」と。
監督は、顔を真っ赤にして、講義中なのに壇上から去って行った。声を発したその時の学生は、決して、おいらではない。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルを知らない人でもナザレという地名を知っている人は意外と多い。
キリスト教に関係する地名だからなのだろうか。
それとも、昔見た映画の地名だからなのだろうか。
そのナザレがポルトガルにあると知るとすごく親近感を持ってくれる。
映画を見たことがないが、機会があれば見たいと思っている。
《晴れ男の保証》
初めてナザレを訪れたのは、2002年1月30日(水)の午前11時15分。ポルトガル撮影取材旅2回目だった。
古代フェニキア人によって開かれた漁村ナザレ。
ナザレの地名は聖母マリアの像がエルサレムのナザレから来た修道士がこの地に持たされたという由来から来ていると聞く。
ナザレの港町を映画で見てから、もう、43年が流れていた。ほぼ半世紀のナザレは色鮮やかであったし、漁村はヨーロッパの観光地に変貌していた。
1月の末だったが陽射しは強かった。太陽を求める北欧の人びとの冬の避暑地になっていた。
そして、11年後。ポルトガル撮影取材旅8回目になる、2013年5月1日(水)の18時40分に、首都リスボンからバスでナザレに入った。
映画でナザレを知ってから54年がたっていた。
仮バスターミナルから旅行バックを転がし、青空の下に広がる大西洋の海風を正面から身体いっぱいに受け止めた時は、懐かしさとまたこの歳になっても来られた、という想いで心が震えた。
細長い海岸沿いには、ホテルやレストラン、土産屋が並び、何枚もの黒いスカートの重ね着姿の民族衣装姿のおばさん達が、宿の呼び込みにエネルギッシュだった。
その海岸通りにある「ホテル・アデガ・オセアノ」で荷を解き、19時を過ぎていたがまだ空は明るい。
1時間ほど海岸通りを右手に大西洋を見ながら南端の漁港まで20分ほど撮影しながら歩く。
魚の干しものをしながら散策する人々に干しものを売っているおばさん達も民族衣装。みな、ナザレの女たちはたくましい働き者だった。
20時過ぎ、海に面した宿のレストランで夕食をとった。
鰯の炭焼きレモン添え、チキンの半身焼き、生ビール、冷たい水。宿泊客は代金の10%引きだった。
レストラン内部からナザレの大西洋に沈む真っ赤な夕日に合掌した。美しい夕日であったが、相棒は慌てず食事を楽しんでいた。
なにせ、ナザレ3泊だ。夕日はあと2回のチャンスがあった。
天気は心配ない。おいらが保証していた。名高いロケ男と言われるほどの、晴れ男だった。
「けいの豆日記ノート」
これだけ、ポルトガルに行っているのに、夕日に出会うことは少ない。
天気もあるだろうし、まわりに高台や建物があると見えないことも多い。
陽が長い時期だと沈む時間が午後9時過ぎになり、その時間まで現場に居られないことも多い。
なので、今回ナザレに3泊するというのは、そのうち1回でも夕日が見られればいいなと思ったのである。
《我らの旅》
2泊目の5月2日(木)は、[バターリャ]と[アルコバサ]に[ナザレ]から日帰りし、3泊目の5月3日(金)は、[カルダス・ダ・ラィーニャ]に日帰りだった。
2日間ともポルトガルブルーの青空だ。晴れ男、健在である。だから、ナザレの散策は、朝と夕方の時間しかいなかった。
が、ナザレ散策は楽しい時間で満喫できた。これが写真家相棒が計画し、計算された旅だった。
しかし、旅は計算通りに行かないのが常だ。走っている筈の乗り物が時間通り走って来なかったり、予定した撮影時間以上に深追いする相棒のため時間がかかったり、昼飯を飛ばしたりと。
でも、現地で予定通りでなかったにしても、計画を立てた相棒は、凛(りん)と動じなかった。計算済みだよ、と悠然だ。
その難儀をクリアーする度胸と運を持った相棒の勘で乗り切った。だから、どんな遭遇に会っても、おいらは動じなかった。
例えば、出発の朝、セントレア(中部国際空港)で『あっ、家にユーロに換えたお金を忘れて来た〜ぁ!』と絶叫したことがあった。
ふたりが出し合った合計の日本円をユーロに換えた金だった。が、相棒の機転で処理したりと機敏判断ですんだ。
ただ、難点は思い込みが強いため、たまにポカをする。
おいらも抜けているが、互いのプラスとマイナスを融和して、13年間(2001年から)で、8回も《ポルトガルの撮影取材旅》を楽しく続けてこられた。
「けいの豆日記ノート」
以前、マルヴァオンという小さな村を訪れた時、宿泊地であるポルタレグレまでのバスが、1日2本しかなかった。
帰りのバスの時間は2時15分であり、それを逃すと帰れないので、忘れないようにメモにしっかりと書いておいた。
なのに、2時30分だと思い込み、5分前にバス停に行って待っていたが、行ってしまったバスは来るはずもなく、途方にくれたことがある。
トリズモ(案内所)まで戻り、タクシーを呼んでくれるように頼んだ。
呼んでもらう往復の出費はしかたがないと思っていた。
そしたら、町はずれのレストランを紹介された。
「ここに行くように。」という。
このレストランで呼んでもらうのかと思っていたら、そのレストランのご主人がタクシーの運転手であった。
村でただ一人のタクシーであったのだ。
乗り遅れたがために違う体験もできて、いいのか悪いのかわからないが、なんとかなっているのは現実である。
《ナザレの町の女たち》
ナザレの町は、女たちで活気があった。常設市場の売り子(おばさん達が多かったが、次代を継ぐ若い美人たちも多い)達との会話も楽しかった。
野菜も果物も魚も肉も、チーズもパンもオリーブ漬けもワインも、日常生活に欠かせないものが、すべて常設市場にはあった。
ここがナザレ市民の、あの映画「過去を持つ愛情」よりずっと前から、一日一日を生きてきた日々の生活の主役の場であった。
この日々を継続してきたのは、女たちである。女たちが、ナザレの町を守り続けていたのだ。ナザレだけではない。
ポルトガルの国を、守って来たのはたくましい女性たちだったと、ポルトガル各地を旅して、確信したおいらだった。
日本の敗戦後、今日の日本を守り生き続けてきたのは、日本男子ではなく日本の女性たちではなかったのか、と98歳を過ぎた母から感じ取っていた。
女は苦境に強く、男はあきらめが早かった。
海岸通りから一本丘側の道が、ナザレの日常生活の場のメインストリートだった。早朝から夜まで、人々の動きが絶えない。
勿論、観光客も多い。その中で、民族衣装のおばさん達の動きが目立つ。男たちが朝獲って来た魚を路地路地で売っていた。
堂々と市営市場の前でも、黙々と売っている。ポリス(Policia)の姿を見ると忍者のごとく散る。
でも、黙認された雰囲気がある。小さな漁村の町だ。ポリスも、この町を守って来たのは、女たちの生命力だと知っている。
そんな町の姿を見ていると、飽きない。笑みさえ浮かんできてしまう。
「けいの豆日記ノート」
以前ナザレを訪れたのは冬であり、海岸には何もなかった。
町中の人影も少なく、寒いばかりであった。
そんな中で、海岸のはずれに魚の干し物をしている場所を見つけた時は、とてもうれしかった。
イワシやアジやサバを網に乗せて、天日に干している。
アジの背開きなど、日本の干し物そのものであった。
干し物の作業をする女性のたくましい腕が印象的であった。
その場面だけで、ナザレを選んだのに充分の価値があったのだ。
《大俯瞰のナザレ》
細長い海岸通りの突き当たりの北側には、100メートル以上の断崖絶壁が迫る。その断崖の上にもナザレの町があった。
そこに行けば、ナザレの海岸通りのプライア地区の大俯瞰が撮れることは知っていた。実は、2002年1月に来た冬場。
断崖の上に行くにはケーブルカーを使えば簡単に上の町に行けると思ったが、冬場はメンテナンスの時期で動いていなかった。
2人は駆け上った。右に左にくねる道をタクシーで登れば10分で行ける上の町まで、歩いて登った。
タクシー代がもったいないチケチ旅であった。1時間近くも撮影をしながら一歩一歩登った11年前の記憶がよみがえった。
あの頃は、若かった。断崖絶壁の上の町まで登るエネルギーがあった。
今『行くぜ〜』と相棒に言われても、たぶんおいらは拒否していただろう。脚腰が、老いていた。
17時15分、ケーブルカー(往復2.4ユーロ)で上の町シテイオ地区に昇る。
5〜6分か。空は、まだまだ、真っ青だ。太陽も眩しい。崖っぷちの展望台の石塀に走り寄る。
覗き込む。左側に、ナザレのオレンジの屋根をのせた町の塊が南に延びている。
中央は、町に沿って広い砂浜(粒石浜)がえぐれて南端の漁港に向かう。
そして、右側に青い大西洋が延々と広がった大俯瞰映像が見えた。
11年前に見た冬の俯瞰と夏場に向かう俯瞰が、脳裏の中で二つの映像を比べていた。
陽射しの量だけ多い鮮明な、5月の清々しい映像美だった。
海の塩臭さと海藻臭さが無い海風が、海岸通りのナザレの下の町から噴き上げていた。
おいらがかぶっているポルトガルの爺たちが愛用しているハンチングがその風で飛ばされそうだった。
この大西洋の遥か先は、ポルトガルで航海術を学んだあのコロンブスがたどり着いたアメリカ大陸があった。
「けいの豆日記ノート」
以前にナザレを訪れた時に、ケーブルカーが工事中であった。
単に、冬場の休止かと思っていたが、今回、ケーブルカー乗り場での看板を見て勘違いをしていたことに気が付いた。
ケーブルカー乗り場の建物を新しくしていた工事だったのだ。
2012年の6月にオープンとの記載があった。
古い乗り場は、どんなだったのかわからないが、新しい乗り場は、ナザレの町らしくない近代的な建物であった。
《崖っぷちの上の町》
崖っぷちの上の町シテイオ地区は、太陽に近い町だった。ナザレの原点に触れられた地区だった。
展望台の脇に小さな礼拝堂がある。知らなければ素通りするほどの、小さな礼拝堂だ。その名は、メモリア礼拝堂。
礼拝堂の中にはキリスト像があり、その端にある階段を下って行くと幼いイエスキリストに乳を与えるマリア像があった。
その周りは、アズレージョ(装飾タイル画)で覆われている。聖母マリアの奇跡が描かれていた。
その奇跡は、現地でそのアズレージョ画をぜひご覧ください。
残念ながら、ここで軽率に話してはならないと思う。
その時、♪暗いはしげ♪のアマリア・ロドリゲスの歌声が、54年前の映画の中で歌う声が耳の中で軽やかに響いて来た。
その日、ナザレの大西洋に真っ赤な夕日が微笑むように落ちて行った。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2014年8月に掲載いたしました。
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