「ポー君の旅日記」 ☆ ラクガキのない芸術の町のヴィゼウ2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2013紀行文・11≫
=== 第四章●コインブラ起点の旅 === ラクガキのない芸術の町のヴィゼウ2
《モーニングタイム》
日本を旅立って8日目、5月7日(火)のコインブラの朝が来た。
旅の疲れが溜(た)まる時でもあり、旅の折り返し点でもあった。
疲れが溜まったのはおいらであり、写真家はホテルのモーニングを腹いっぱい満喫していた。
朝食はど安宿以外は、ほとんど付いている。
宿泊費相応にモーニング内容には格差があるが、我らケチケチ旅族はお腹がいっぱいになればそれでいい。
だが今回は、ポルトガル第三都市コインブラのモンデゴ川岸にある三つ星ホテル・アストリアのモーニングだ。我々にとっては豪華であった。
今回の旅のスケジュールも相棒が企画し、宿も予約してくれた。おんぶにだっこである。
相棒がおいらのパソコンに今回の旅スケジュールを送って来た時、コインブラの宿が「ホテル・アストリア」と知った。おいおい、ケチケチ旅に憧れだった三つ星ホテル・アストリアは場違いだ。
ミスプリだと思い即、メールを送る。その返信は端的である。
『年金生活者よ、案じるな。格安で泊まれるぜ!』だった。
相棒には、ケチケチ精神が根強く生きていた。任(まか)せていいのだった。
モーニングは毎朝、腹いっぱい食べられた。
今朝は、焼き立てのクロワッサンにポルトガルでポピュラーなエッグタルト、大好きなスクランブルエッグを山盛り、焼きベーコンに紅茶。
相棒はサラダ満載にコーヒーだ。小さい身体の食欲は、凄い。
おいらはお代わりしなかったが、相棒は席を立ってサラダコーナーに向かった。
「けいの豆日記ノート」
ほとんどのホテルには、モーニングがついている。
安いホテルには、モーニングがなかったり、別料金のところがあるので、ついているのかついてないのかの確認も必要である。
安いからといって決めるとモーニングをカフェで食べなければならず、高くつくこともあるので注意である。
それに、ホテルのランクによって、モーニングの内容も変わってくる。
やはり、値段なりのモーニングなのである。
このアストリアホテルは、三ツ星ホテルなのに、ネットからの限定格安で泊まることができた。
なので安いのに、モーニングがリッチで、うれしい限りである。
パンの種類が多かったり、フルーツがあったりすると、楽しくなる。
《交通手段の要・コインブラバスタ―ミナル》
コインブラのバスターミナルに向かった。宿を出てモンデゴ川沿いを歩く。今にもひと雨あってもおかしくない雲行きだ。
対岸に渡るサンタ・クララ橋が降方に見え、川面は雨雲を映し出していた。鉄道のコインブラA駅を200メートルほども過ぎた時、相棒が吐いた。
『途中に、線路向こうに渡る跨線橋(こせんきょう)があったかな〜?バスターミナル近くに渡る・・・ないか。なら急がば廻れ!だ』。
コインブラA駅まで戻った。駅舎の正面の大きな丸時計は8時32分を指している。時計の針を見ながら『モーニング、食べすぎかな、脳が満腹、ハハハ』平然と笑う。
地図に強い〈犬〉にも、こんなチョンボもある。
ついて行くだけのおいらは、犬を心底信じている。
なにせ、おいらは自慢の方向音痴だった。
コインブラのバスターミナルは大きい。ポルトガル第3都市コインブラは大切な交通の要であった。
ポルトガルの交通手段はふたつある。ひとつは、大西洋沿いを南北に国鉄の列車が走り、あとひとつがバス。
バスは各地から南北と東西に走る。
ポルトガルの南端から走って来たバスは、2か所に集中する。首都リスボンと古都エヴォラだ。
その2か所から蜘蛛の巣のようにバスは各地を走り、北に向かってきたバスを収束するのが、コインブラバスターミナルである。
コインブラからは北のポルトガル第二都市ポルトやスペイン国境近くの山村、更に隣国スペイン行きもある。
この朝のコインブラバスターミナルは、人々で賑わっていた。売店で朝食を取る勤め人も多い。
ポルトガルのサラリーマンの朝食は、町のカフェや交通手段の売店でエスプレッソを飲みヴィエニ―ニャ(ポルトガルのパン)を、新聞を見ながら食べる人をよく見かけた。
お勤めのお父さんは、朝食を自宅で食べ出勤する人はほとんどいないと、コインブラ在住のKimikoさんから聞いたことがある。
「けいの豆日記ノート」
コインブラには、コインブラA駅とコインブラB駅がある。
コインブラA駅は、町の中にある引き込み線である。
リスボンからポルトまでの特急列車が通る駅は、コインブラB駅である。
コインブラの町に行くには、B駅から引き込み線に乗り換えて、A駅に行くのである。
そのB駅とA駅の中間にバスターミナルがある。
バスターミナルまで、ホテルからスーツケースなどの大きな荷物を持って行くには、少し辛い距離である。
タクシーに乗って、ホテルからバスターミナルまで行こうとした。
地図を見せて、バスターミナルまでということを言って乗ったのに、着いたのは、コインブラB駅の裏側であった。
違うことに気が付いて、バスターミナルまで戻ってもらい、料金が2倍とられたことがある。悲し〜〜〜〜
ポルトまでいくのは、バスでなく、列車のコインブラB駅だという観念があるのかもしれない。
《恐怖のバス運転手》
ポルトガルのバス運転手は、粋な伊達男も多いが腹ボテの中年おじさんも多い。
糖尿病予備軍が多い国かもしれない。日本では信じられない運転手の共通点があった。それはおしなべ、おしゃべり野郎が多かった。
昔イタリア映画ではよく見られた光景であったが、ポルトガルにもいた。
まあ、サービス精神旺盛だと思えば良いかもしれないが、我ら日本人には耐えられなかった。しかも、怖かった。
コインブラからヴィゼウに向かった9時30分発の中年運転手は、発車前から最前列右座席の乗客おじさんと話だし、運転中も喋り続け、そのすべてをおいらは目の前で体験したのだった。
左側の運転席のすぐ後ろの席に座り、前方の流れ来る風景を楽しもうと思った席だ。それが間違いだった。
1時間半も会話の洪水に難儀した。話すことが理解できない苦悩もあった。
《おいおい、運転手くん、前を見んかいな、前を!話をしてもいいが運転中は、前を見てくれ!話し相手の顔を見るな!見るなって!前を見て話してくれ〜!ふ〜ゥ・・・》
そんなおしゃべり騒音も子守唄にして、相棒は座席シートに身を沈め眠っていた。
撮影する時間以外は無頓着の肝っ玉を持っている。
おいら一人が耐え忍んだスリルも、ヴィゼウまでの運賃8.5ユーロに含まれていたのだった。
「けいの豆日記ノート」
バスの運転手さんが、おしゃべりであることは、よくあることである。
車内ならともかく、バス停などで止まったまま、長話をすることもよくある。
お客さんは、誰も怒らないので、普通のことなのかもしれない。
まあ、眠り歌にしか聞こえないので、支障はないのだが。
聖母マリアの奇跡が起こった聖地ファティマの巡礼が、5月13日なこともあり、郊外の道路を歩く人をよく見かけた。
車道なので、目立つように、発光塗料入りの黄色のベストを着ている。
日中はファティマに向かって歩き、夜には車で自宅に戻り、また次の日にその続きから歩くらしい。
車で送り迎えをする人が別にいるということなのか・・・
バスから外を見ると、ヴィゼウの町から歩く人々がいた。
ここからファティマまでどれだけの時間がかかるのだろうか。
《11年振り》
2002年1月29日、相棒とふたりして初めてこの地に来た。ポルトガル撮影取材2回目。
当時はフィルム撮影取材旅であった。あれから11年振りのヴィゼウ来訪だった。
だが、おいらには〈忘却の町〉であった。73歳になっていた。
突然だが、「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」と
昭和27年4月から始まったNHKラジヲドラマ[君の名は]の名ナレーションの声が、耳の底に今もなおこびりついている。
話がそれるが、あの頃は自宅に風呂もない庶民の生活だった。
だから、当然みな銭湯に行った。そう、あの富士山のペンキ絵がある大衆浴場を利用していた。
その銭湯が夕方過ぎには、いつも芋を洗うように混み合っていたが、[君の名は]が始まる時間帯は男風呂でもガラガラ状態であった。
その時の状況をおいらは知っていた。
東京・世田谷に住んでいた我が少年は、ラジヲドラマが大好きな小学校6年生であった。
11時にヴィゼウの大きなバスターミナルに着く。
小さな町なのにバスターミナルは賑わい、人の流れが絶えない。でも、おいらにとっては忘却の風景なのだ。
それが、何故この町であったのか、不思議でならない・・・。バス車中で寝込んだ睡眠充分な相棒は、目覚めと共に〈犬〉になっていた。
流れ去った11年の歳月を一瞬にして嗅ぎつけた。『まず、レプブリカ広場に行こうか』と吐き、シャッターを2回鳴らす。
客待ちのタクシーに乗る観光客が多かった。
その脇をすり抜け、相棒はまるで昨日も来た町のように躊躇(ちゅうちょ)なく石畳の坂道を登って行く。
当然おいらは、後を追った。忘却の町は、意外と広々とした町であった。
道幅もあり、商店や民家が連なる坂道の町だった。
坂道の目の前を、でっかい牛の塊肉を背負い車から運ぶ、赤い作業ズボンの中年男がいた。
相棒がシャッターを切る。写真家が逃すはずはない。自分の体を運ぶほどの大きさだった。生々しい現場である。
80キログラムは有にある塊(かたまり)だ。街路樹にピンクの花が咲く。
桜の花びらに似たピンクのアーモンドの花びらが脳裏に浮かぶ。でも今は5月。
ポルトガルのアーモンドの開花は1月〜2月だ。では、この街路樹のピンクの花は?八重桜に似ていたが、判らなかった。
忘却の町の坂道を登って来る間、おいらは2002年に書いたヴィゼウの紀行文を再読したかった。
何を書いたのかも忘却だ。
だが、車が半円を描いて走るロータリー壁面いっぱいに飾られたアズレージョ(装飾タイル画)を見た途端、アッ!と脳の隅っこで豆ランプが点灯した。ここには来た!と閃いた。
レプブリカ広場の、このアズレージョの記憶が急激に浮かぶ。薄ぼんやりした忘却の町ヴィゼウをアズレージョが解決してくれた。
そして、このロータリー前の公園に、場違いみたいに置かれた直径4メートルほどの小さなメリーゴーランドだった。
3分0.5ユーロで音楽が鳴り、木馬が回転した。11年前はエスクードからユーロに切り替わった時だ。
当時ならユーロだと0.2ユーロぐらいだったかもしれない。ユーロになってから便乗値上げが急増した記憶がある。
「けいの豆日記ノート」
以前にヴィゼウを訪れた時も、曇模様のはっきりしない天気だった。
知らない土地で、太陽は重要な意味を持つ。
地図を見ながら、太陽の位置で、方向を考えるのである。
バスターミナルは、町のはずれにあることが多いので、まわりの景色だけでは、どの方向が旧市街地なのか、わかりにくい。
南方面に行くのはわかったが、途中、曲がる道を1本間違えた。
だんだん、住宅地の並ぶ郊外に出てしまって、学校らしき場所についた。
そこの人に地図を見せて現在地を聞くと、地図からはみ出たところであった。
方向修正して、旧市街地までたどり着いたのである。
今回は、2回目であることもあり、順調にたどり着くことができた。
《落書き》
息絶え絶えに坂道を登って来たヴィゼウの町は、他の町とは何かが違っていた。
それは、ヴィゼウの町の建物や壁などにスプレーで描いた落書きがなかった。
首都リスボンでも地方都市に行っても悪戯(いたずら)描きの文字や絵が、商店街のシャターや裏通り壁面はもとより電車の車体一面やケーブルカーにも、町中が落書きだらけなのだ。
この現象はポルトガルだけではなく、ヨーロッパの国々の頭痛の種になっているらしい。
名古屋の町でもたまに見かけるが、あんなもんじゃない。
街が落書きで壊れていく恐怖さえ感じる。
だが、おいらが歩いた限りのヴィゼウの町には、それがなかった。
町全体の人々の結束があるに違いない。
そこを調べ追及すれば素晴らしいドキュメントが作れるかもしれない。
それには莫大なお金と時間と語学力が必要だ。
我らには、何一つない。我らの旅の目的は、ポルトガルの国を一日二万歩かけて歩き、人々との素敵な出会いをカメラに焼きつけることが目的である。
もう13年になった。遅遅(ちち)とした撮影取材旅であるが、この遅遅だからこそ続けて来られた旅だと思う。
「けいの豆日記ノート」
ヴィゼウの町のラクガキのないことは、すばらしかった。
ヴィゼウでできるのであるから、他の町でもやればできるのではないかと思う。
もう一つ感心したのが、横断歩道の信号機が、緑にかわると、後何秒で赤になるかの表示が出るようになっていたことである。
道幅が広いならともかく、そんなに長い距離でもない横断歩道にもである。
生活しやすいように考えられているのだと思う。
《ホケポケボケ》
『急ごう!』と相棒が叫ぶ。11時を過ぎ昼に近づいていた。12時半になると昼タイム。容赦なく観光施設は閉まる。
『でも、慌てなくてもいいよ。慌てる旅じゃないからさ』と相棒。お〜い、どっちだ〜、その優しさ? 年金生活者よ!の文字が横切った・・・。
坂道を急いだ。15世紀にアフォンソ5世によって造られたという10メートルほどの城壁にアーチ状のポルタ・ド・ソアールと呼ばれる狭い門が見える。
石畳がそのアーチまで続き、その門をくぐり抜けると今までバスターミナルから歩いて来た街並みと風情がガラリ変わる。ここは、旧市街地である。
石畳のひとつひとつのすり減った石の大きさがまばらで、しかも大きい。
また、石畳の道は平でなくて少し波打ったように見えるその荒々しさがいい。
旧市街地の坂道の先に見えた石積みの家並みもよかった。落書きのない風情が心地よかった。
狭い道に連なるこの建物は、300年以上もたっていると知る。
トゥリズモ(観光案内所)の美女たちから地図と資料を貰った時に聞いて知ったのだった。
ポルトガルの魅力の一つは、都市でも農漁村でも荒野の中の町でも、ほとんど旧市街地があることだ。
旧市街地は、そのまま世界遺産のよう。つまり、ポルトガルの国中が世界遺産のポルトガル合衆国であった。
門を抜けると、石組の風情ある建物が奥に向かって続いていた。
でも、11年前もこの風情ある町並みを歩いたのに、忘却の彼方に押しやっていた自分が情けなかった。
73歳になっていたおいらの人生にも〈ホケポケボケ〉の三段活用が始まったのだろうか。「忘却とは忘れ去ることなり。
忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」なのだ。旅とは、同じ場所に何度も行って、何度も立ち止まり、何度もその雰囲気の気配をやさしく感じ取ることだった。
「けいの豆日記ノート」
カテドラルや修道院、美術館を見学するときの注意点は、開館時間である。
リスボン、ポルト、コインブラ、エヴォラの有名な街の施設では、休憩時間などで閉まることはないが、小さい町の場合、閉まるのである。
特に昼休みの休憩時間は2時間は開かないので、気を付けるようにしている。
ヴィゼウのカテドラルは、12時からランチタイム、その向かいにあるミゼリコルディア教会は、12時30分からランチタイムである。
ランチタイムに入る前に見ないと、閉められてしまう。
街並みを見るのは後にして、カテドラルを初めに見ようと思った。
そのあとに、ミゼリコルディア教会である。
美術館は午後からしか開かないので、後回しである。
《ヴィゼウの宝》
坂道を登り詰めると旧市街の中心地に、東西幅100メートルほどのカテドラル広場がある。
広場の西側に優雅なファサード(正面玄関)のミゼリコルデイア教会、東側にカテドラルとグラン・ヴァスコ美術館の建物が向き合っていた。
ヴィゼウ市民が何百年と守り続けてきた宝だと、トゥリズモの美女たちが教えてくれた建物だった。
まず、カテドラル(大聖堂)の外観を見た。花崗岩造りの左右の鐘楼が歴史の流れを支えていた。
カテドラルは1289〜1313年に造られ、その主要部はロマネスク様式からゴシック様式移行する時代のデザインだという。
ロマネスクは10〜12世紀、ゴシックは12〜16世紀に西欧で築かれた建築様式である。
その後大改修されバロック様式(17世紀)のファサードとマヌエル様式の丸天井が追加されたという。
カテドラルのきらびやかな金塗り祭壇の飾りは、一級芸術品であった。
特に目を引いたのは、カテドラルの南にあった1面が20メートル以上もある16世紀ルネッサンス様式の回廊だった。
回廊としては小振りであったが、その4つの回廊壁面に飾られたアズレージョには心を奪われた。
そのタイル画の焼きの青さが繊細で緻密で、おいらは回廊を5周もしてしまった。
ポルトガル各地で見て来たポルトガルアズレージョは素晴らしい。
アズレージョを見たさにおいらはポルトガルを旅している、と言っても過言ではない。
カテドラルの対面に18世紀建造のミゼリコルディア教会がある。
ロココ様式のファサードは花崗岩の白と灰色のコントランスで映える。美しいと、おいらは思う。
教会内部は19世紀のネオ・クラシック様式だと知る。
ここにあった絵画や彫刻は、カテドラルの隣にある三つ目の建物であるグラン・ヴァスコ美術館に移されたと係りの女性が教えてくれた。
不思議であった。こんなに素晴らしい所なのに、なぜヴィゼウが忘却の町になってしまったのかが、不思議でならない。
「けいの豆日記ノート」
以前、訪れた時は、カテドラルの外側は工事中であり、内部は見ていなかったと思う。
道に迷ったので、休憩時間にかかって閉まっていたのかもしれない。
その当時は、建物の内部には、あまり興味がなかったせいもある。
興味があってもフィルムで撮影することがむずかしかった。
撮影できない内部より、町の人々を写したかったのである。
今回、カテドラルの内部の教会や、回廊も見ることができた。
カテドラルの向かいにあるミゼリコルディア教会の宝物殿も見ることができた。
午後から行くはずの美術館は撮影不可だったが、ミゼリコルディア教会の宝物殿は、撮影ができて、よかったと思う。
《新品ケーブルカー》
美術館は、アウト!だった。昼飯タイム突入だと思った。でも、この日・火曜日は14時〜17時30分までがオープン。
午前中の開館はなかった。水曜〜日曜10:00〜12:30と14:00〜17:00オープン、月曜休館であった。さて、14時までどうするか。
コインブラのホテルに帰還して、明日のポルトガル第二都市ポルトに行く準備でもしようかと思ったその矢先、相棒は歩を進めていた。
写真家は職業柄目がいいし、その上《犬》であった。旅に必要な必需品である、勘と臭覚を持っていた。
ミゼリコルディア教会の裏手に、新品のおもちゃみたいなケーブルカーを見つけたのだ。
黄色と赤色で彩られた車体が可愛い。
遊園地みたいと言いたいが、ケーブルカーの両脇は300年も前の建物と5階建ての近代アパートが混合していた。
駅舎から黄色い枕木に黒いレールが敷かれ、まっすぐ急坂を下り遥か先の駅舎まで延びていた。
始発と終点の2駅舎の間隔は、600メートルはあろうか。停まっていた車両に乗り込む。
立ち乗客を入れたら満杯で18人程か。
すでに運転席の隣の最前列の座席で、カメラを胸に相棒は陣取っていた。
『15分ごとに下りと上りの同時運転だってさ、しかも、タダだって!』笑顔が弾けていた。
只(タダ)が大好きである。只と書いて、カタカナで読むとロハ(タダ)である。運転手は女性だ。
25歳ぐらいの目がキラキラした可愛い人だった。
ポルトガルの人は黒髪が多い。子供たちの顔は日本人に似ていた。
坂の途中で彼女は直線線路の左にある半円線路に舵を切って止まると、下から来た男性運転手が二コリ笑ってまっすぐ上に走って行った。
彼女は直線線路に入り下った。線路の両側は石の階段であり、石畳である。
彼女に折鶴を1羽渡し、相棒は撮影させてくれた礼を言って降りた。乗客は我らだけだった。
「けいの豆日記ノート」
旅に行く前にネットで検索していると、ヴィゼウにケーブルカーができたことを知った。
それもなぜか無料であるケーブルカーに興味を持った。
距離も短く、観光するために造られたのか、坂を上るために造られたのか、よくわからない。
トリズモでもらえる地図が有料なのに、ケーブルカーが無料とは、不思議な話である。
坂下の町は緑に輝く樹木が繁り、芝生で囲まれた小川が流れ情緒があった。
ピカピカの高級車が何台も路肩に並び、リッチさを感じさせる町並みでもあった。
道にはゴミ一つ、踏みつけられた吸い殻ひとつない。ヴィゼウだからかも知れない。
そして思う。ポルトガルは財政危機の国家ではなかったか、と。
この後、相棒はケーブルカーを2往復し、カフェで1ユーロのイチゴアイスをなめ、路地路地に潜り込み風情をなめまわし撮り、
カテドラル広場でグラン・ヴァスコ美術館を見学に来た高校生男女の一群を撮りまくり、待ち時間1時間半を有効にものにし、そして美術館を満喫したのだった。
忘却のヴィゼウ町だったはずが、これほど鮮明な記憶に残る町になろうとは思ってもいなかった。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2014年12月に掲載いたしました。
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