「ポー君の旅日記」 ☆ ポルトガル最大級の露天市場のバルセロス2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2013紀行文・13≫
=== 第六章●ポルト起点の旅 === ポルトガル最大級の露天市場のバルセロス2
《木曜日》
ポルトガルの首都[リスボン]から北に300キロメートル程にある港町[ポルト]に着いた2日目の、5月9日木曜日の朝が来た。
毎週木曜日にポルトの近郊にある[バルセロス]で露天市場が開催される。
ポルトガルで最大級の露天市場であるとおいらは思っている。
2013年ポルトガル撮影取材旅のスケジュールを考案したのは、相棒の写真家だ。
バルセロスに行くためスケジュールをやり繰(く)りして、今日木曜日に合わせたのだった。
しかし、サン・ベント駅が間近のポルトの定宿ホテル・ペニンスラールの部屋から、窓越しに見た6時半の景観は、小雨が霧状に舞っていた。
7時30分、モーニングを食堂で食べながら打ち合わせ会議をした。
『小雨が一日中降るようなら、撮影にならない。
バルセロス行きは残念だけれど諦めようか』と、写真家は吐く。おいらは反論だ。
朝の霧雨は、晴れる確率が高い。「でもさ、おいらは何者だ?」というと『晴れ男』と相棒。
「なら、おいらの提案に乗らないか」。ふたりの会議は、一瞬にして終わる。
相棒は、今朝もピンク地に花模様の派手な色彩の合羽(カッパ・ポルトダル語)を着て宿を出た。
バルセロスに行く前に寄るところがあった。常設市場のボリャオン市場に向かった。
宿から石畳の坂道を北に登る。初めてポルトに来たのは、ポルトガル撮影取材旅2回目の2002年1月23日。
そして、その時撮影させてもらったボリャオン市場の人々が、今も忘れられなかった。
「けいの豆日記ノート」
雨の日は、撮影にならない。
建物だけならともかく、人物を撮りたい場合、撮影には不向きなのである。
それに雨に濡れてカメラが壊れたりしたら、それこそ、たいへんなのである。
情緒があるといえばそうかもしれないが、カメラが壊れるリスクを負ってまで撮るものでもないと思う。
バルセロスは、以前にも行ったことがある。
もちろん、露天市場を見たいためであった。
その日は、バルセロスによってから、ヴィアナ・ド・カステロに行く予定だったので、露天市場をひととおり見てから、移動してしまった。
目的が露天市場の人々であったこともあるが、町の東側にある市庁舎や考古学博物館の方面に行っていなかった。
次に訪れるときには、ぜひ、行きたいと思っていた場所である。
《あの人々は、今》
11年前だった。初めて常設市場を訪ねた時は、おいらも若かった。
61歳の冬である。ポルト市民の台所であるボリャオン市場は、日々の生活に欠かせない食のすべてがあった。
しかも、売り手も買い手も、98パーセントが働き者の女の世界だった。
2階建の売り場が周囲を囲み、囲まれた中央の広場は平屋の店が幾筋もの通路で仕切られている。
市場全体の屋根はない。しかし、この世界は女の声が反響するエネルギーで満ちていた。
八百屋の家族、魚屋のおばさん、果物に囲まれたおばあさん、路地の角で丸椅子に座り刺繍クロスを売る小奇麗なおばあさん、
パン屋のおねえさん、色取り取りのオリーブ漬けを並べる姉妹、花屋の母娘、生きた兎売りのおばさんなど100人近くの女性たちの職場であった。
そして、2006年10月に寄った時は閑散としていた。
2階建の建物が老朽化して補修工事が必要となり、その工事費で市ともめていると魚屋のおばさんが教えてくれた。
あの元気と威勢があったおばさんの声が沈んでいた。この時から更に7年の歳月が流れた今回、霧雨のボリャオン市場に寄った。
2階建の建物には足場が組まれ、その鉄パイプの林の中で店を開いているところもあった。
2階の野菜や果物売り場は変わっていなかったが買い手が少なく、売り手の声もなかった。
親しかった八百屋の家族も果物屋のおばあさんにも会えなかった。
相棒は淋しさを背負い小雨の坂道を下ってサン・ベント駅に向かった。
「けいの豆日記ノート」
どこの町でもそうだが、昔ながらの常設市場がなくなりつつある。
郊外に巨大スーパーができたためである。
郊外のスーパーは多少遠くても、どの家にも自家用車はあるし、営業時間が長いし、値段は安いし、しかたがないことかもしれない。
レジが何十台も並んでおり、壮観な眺めである。
《切符》
サン・ベント駅は、1930年に製作されたアズレージョ(装飾タイル画)が見応え充分である。
セウタ攻略やジョアン1世のポルト入城の様子などが高いホールの壁一面に描かている。
それが保護のため薄い沙(しゃ)でアズレージョ一面が覆われていたが、今回は補修工事も終わり美しい姿で蘇っていた。
この駅舎ホールは、かつては修道院であり、20世紀初めにその跡地がサン・ベント駅になった。
その駅で相棒は切符を買うのに何時も難儀していた。鉄道の切符売り場に苦労しているのは相棒である。
時刻表に強い相棒は、9時45分発のブラガ行きに乗りニーネで乗り換えれば11時15分には[バルセロス]に着く。
しかし、切符が発車10分前だというのに買えなかった。『いつもの手で行くよ!』と相棒は走り出す。
ホームに停まっていた始発車に、手でボタンを押し扉を開け乗り込んだ。
車中で車掌から切符を買った。親切な車掌だった。ニーネ駅で乗り換えて、バルセロスで下車です。と丁寧だ。
前にも・・・あった。そう、昨年(2012年)アレンテージョの古都エヴォラから首都リスボンに行く朝だった。
鉄道のエヴォラ駅舎は長い人の列。その中央に相棒は並んでいた。切符売り場は閉まったまま。
列車が来る15分前だというのにカーテンは動かない。10分前、プラットホームに列車が滑り込んで来た。
やおらカーテンが開いた。30人以上の列は3番目で止まり遅遅として進まない。
『汽車に乗るよ~!』と列から相棒が離れた。その声で、おいらは重い2つの旅行バックを列車に運び込んだ。
相棒も乗って来た。何ということでしょう!その後を沢山の人びとが列から離れ、なだれ込んで列車に乗って来た。
ガタンと、動き出した。みんな乗れた。手に切符はなかったが。車掌が来た。
みんなが状況を説明してくれた。オブリガード!オブリガ―ダ!と、みんなが礼を言ってくれた。
あの時、相棒の行動が無ければ乗れない人がいたか、みんなが切符を買うまで列車が待っていてくれたか。それは知らず。
「けいの豆日記ノート」
ポルトのサン・ベント駅から近郊列車が出ている。
ブラガ、ギマランイス、アヴェイロなどの近郊列車は本数も多くて便利である。
切符は、自動販売機で買うことになっている。
バルセロスは、近郊列車だけでは、途中までしか行けない所であった。
通りがかりの人に自動販売機でバルセロスまでの切符を買う方法を聞いたがわからず、切符売り場に連れて行かれた。
切符売り場は列ができていて、順番がくるまで列車が出てしまいそうであった。
なので、列車の中で切符を買うことにして、とりあえず乗り込んだのである。
不慣れな観光客だと思ったらしく、ニーネ駅に着く直前に車掌さんがわざわざ戻ってきてくれて、降りるように教えに来てくれた。
本数が少ないため、この列車を逃すと次の列車まで数時間待たなければならないのである。
降りる駅はわかっていたが、こういう親切はうれしいものである。
《露天市場》
10時54分、ニーネ駅で乗り換え11時15分バルセロス駅に着く。9年振りのバルセロスだった。
今回この地に来た目的は、ポルトガル最大級の露天市場の賑わいとそこで働く人々の姿をデジタル撮影で残しておきたかった。
フィルム撮影時代の2004年は2時間ほどしかいられなかったので、今回は半日以上も時間をとった。
人口4千人程の小さな町だが、市(いち)が立つ木曜日には人口の倍以上の人で賑わうとトゥリズモ(観光案内所)の美女が教えてくれる。
どの町にも必ずトゥリズモがあり、地図や資料をくれ説明してくれる黒髪の女性は美しい。
駅舎を出ると目の前に直線的に延びる商店街を500メートルほど真っすぐ進めばレプブリカ広場の露天市場である。
大きなテントが色取り取りに張られ、その下には商品が溢(あふ)れている。
大きな苺、洋梨、赤い林檎、青い林檎、オレンジなど山積み。背丈以上に積まれたバカリュウ(干し鱈)はポルトガルの必需食品だ。
レストランでバカヤロウといえば鱈の料理が出てくるぐらいポピュラーな魚である。
生きた可愛い兎が何匹も段ボールの中で見つめてくる。兎料理は定番だ。相棒が撮る。
大きな木製のしゃもじや木皿の加工品。透明瓶の中におさまるオブジェのガラス製品。
でっかい恐ろしいほどのカラフルなブラジャーが何十ッ個とテントの天井に吊るされる。
果物や野菜、花や食品、衣類に陶器など、どんなものでもすべて揃(そろ)う。見ていて飽きない露天市場だ。
200店舗では効かないだろう。赤いトサカのガロとよばれるニワトリの置物も当然売っていた。
「けいの豆日記ノート」
晴れ男のせいかどうかわからないが、露天市場につくころには、雨があがり、曇空になっていた。
露天市場とお祭りは、人物写真を撮りたいものにとって、テンションが上がる場所である。
なんといっても、撮りたい人物が選び放題である。
常設市場はバックの風景が建物の壁だったりして面白みがないが、露天市場はバックの風景もいいものである。
これで、陽射しがあれば最高であるが、雨が降ってないだけいいと思わなければならない。
《ガロ伝説》
市場周辺でも大きな赤いトサカのニワトリ姿のオブジェをいくつか見た。
ポルトガルで人気の幸運を呼ぶマスコットだという。この地バルセロスは雄鶏伝説でも知られていた。
~その昔。ガルシア人の巡礼者がスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに詣でる途中のバルセロスを出ようとしたとき、無実の罪をきせられ逮捕され縛り首の刑を受けることになる。
刑の執行前に判決を下した判事に会わせてくれと願い出る。食事中の判事の目の前には鶏の丸焼きがあった。
巡礼者は叫ぶ。『私が無実であるという証拠に、刑が執行される時は、その雄鶏は鳴き叫ぶだろう』と。
そして、執行されようとしたとき、その丸焼きが高々と鳴き叫んだのだ。
巡礼者は釈放され、数年後再びバルセロスを訪ねた彼は聖母マリアと聖ヤコブに捧げる石の十字架を削った。~
その石の十字架は、バルセロスにある考古学博物館にあった。14世紀の石の十字架である。
「けいの豆日記ノート」
ニワトリのマスコットのお土産品は、どこにでも売っていた。
鉄製のガロが多く、小さくても意外と高いのである。
以前、バルセロスに来た時に、陶器製のガロを数個買っていった。
ひとつひとつが手描きであり、柄の種類も多かった。
他のところでもあるかなと思っていたが、陶器製のものは売っていなかった。
売っていても高かったのである。
今度、バルセロスに来たら、陶器製のガロをたくさん買っていこうと思っていた。
基本お土産は買わないのだが、小さいガロだけは、ほしいと思っている。
《おじいさん》
考古学博物館は市場の南を流れるカヴァド川岸の高台にあった。
とうとうと流れる川にはゴシック橋がかけられ、中世の面影が残っているような風情を感じさせた。
カヴァド川を見下ろすこの一帯は旧市街地で、廃墟のような15世紀建造の初代ブラガンサ公爵邸が残っている。
それが、考古学博物館になった。ここで撮影中の相棒がおじいさんに捕まった。手ぶり身振りで熱心に説明してくれる。
とても大切な史実を語ってくれていることだろう。散らばり残された石魂の生命の重さは伝わって来た。
ここだけで40分は過ぎて行ったが、おじいさんとの出会いは記憶に残った。
小雨はバルセロスに着いた時には消え、うす雲であったがおじいさんの説明中に雲が切れ、青空が広がって太陽が照りつけて来た。
『(露天市場に戻って)撮り直すからね。30分後にあの教会前で!(市場前のボン・ジェズス・ダ・クルス教会)』と、相棒は走り去って行った。
市のある日はポリスも多い。よって治安はいい。安心して離した。
「けいの豆日記ノート」
考古学博物館は、石のかたまりがゴロゴロと置かれている感じであった。
きっと、何百年前の貴重な石だと思うが、石には関心がなかった。
そんな貴重な石なら、露天にさらしていいものなのか・・・?
とりあえず写していると、おじいさんがパンフレットをくれて説明を始めた。
よく、美術館などで、説明付きのガイドがあったりするが、言葉がわからないので断っている。
自分のペースで見たいというのもある。
今回も断ろうかと思ったが、熱心なので少し聞いてみることにした。
言葉はわからなくても、ジェスチャーまじりで話してくれて、なんとなくわかるものである。
《22087》
バルセロス15時55分発の列車は直通でカンパーニャ駅に着き、乗り換えてサン・ベント駅に17時に着いた。
今日の万歩計は22087歩であった。相棒は、25000歩はいっている筈だ。
駅前の定宿で用を足し、更に歩いてドウロ川に架かるドン・ルイス1世橋の上を眼下のポルトの町を撮影しながら渡り、
対岸のヴィラ・ノヴァ・ダ・ガイアのポートワイン製造地帯の上空を川岸沿いに走る最近出来たロープウエイのゴンドラを撮る。
18時になっていないポルトの空は、青空で明るい。太陽が落ちるのは21時頃だ。ホテルに戻ったのは、19時だった。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2015年2月に掲載いたしました。
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