「ポー君の旅日記」 ☆ ポンテ・デ・リマ&リンドーゾ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2013紀行文・15≫
=== 第六章●ポルト起点の旅 === ポルトガル北辺地のポンテ・デ・リマからリンドーゾにドライブ旅
《ドン・ガバチョ画伯》
今朝(けさ)は、心がワクワクしていた。1年振りにドン・ガバチョ画伯と奥さんのカトリーヌさんに会えるからだった。
昨年2012年6月に、7回目のポルトガル撮影取材旅に来た時、ふたりが住まいにしている片田舎に押しかけ、お世話になった。
城壁に囲まれたアレンテージョの古都[エヴォラ]の宿から、バスの便が悪かったため仕方なしにタクシーを使う。
なにせ、ケチケチ旅を心情にすえて旅を続けている我らは、ほとんどタクシーに乗ったことがない。
25分ほどだったが、コルク採取で生きてきた小さな農村[アサルージャ]で、平屋一軒家を借り生活基地にして住民の中に飛び込み同化していた。
ドン・ガバチョ画伯は、夫婦でポルトガル各地を旅して、瑞々(みずみず)しい筆運びの水彩画を描く画家だ。
日本でも〈絵が売れる画家〉のひとりとして人気者である。特に女性にヒットしているドン・ガバチョ画伯である。
おいらは彼にプレゼントを持参していた。熊本産サツマイモ焼酎と日本産の胡瓜をトランクに隠し持っての〈来ポ〉。
ドン・ガバチョ画伯に喜んでもらうためだった。芋焼酎氷水割りに胡瓜の輪切りを入れて飲む。その味は、メロンの味に変身だった。
名古屋の千種区の飲み屋で画伯から教わった。その味を、ポルトガルで楽しんでもらいたかった。
夫婦が、ポルトガルで最も美しい村の一つだという[モンサラーシュ]に自家用車で連れて行ってくれた。我らはかつて泊まった村であった。
その村で、カトリーヌさんが作って来てくれたピクニックランチを、小高い丘の上にポツリ取り残された中世の白い壁面の世界の中で食べた。
消臭力CMで知られるようになったポルトガル。そのひとつの撮影場所が[モンサラーシュ]である。
おいらは料理上手なカトリーヌさんのランチに舌を打った。
ポルト産のポートワインで食べたかったが、運転してくれているドン・ガバチョ画伯には、失礼である。
アサルージャ村に帰路するとき、自然発生しているニンニクの紫色の花と球根付きで根元まで掘り起こす。4人で40分ほど泥だらけになって採取。
このニンニクは[ポルト]の町の6月の〈サン・ジョアン祭〉にはなくてはならない魔除けの一品であった。
そんな思い出が、ずっしり詰まった優しい画伯夫婦に今日1年振りで、ポルトの定宿である〈ホテル・ペニンスラール〉で10時に会う約束になっていた。
[アサルージャ]のドン・ガバチョさん宅から9時間は必要な距離を走って、我らに会うために来てくれるのだ。
その上、交通の便が悪い北の片田舎の世界に車で行ってくれるという手筈だった。
その手筈を計画したのは、相棒がカトリーヌさんに頼み込んで実現したドライブ旅だった。
そのドン・ガバチョ夫婦に会うまでの1時間半を大好きな[ポルト]の朝の散策に当てる。空は青空。申し分ない晴れ男、すぎさん日和であった。
宿からドウロ川に架かるドン・ルイス1世橋に向かった。
「けいの豆日記ノート」
前回の旅で、いろいろとお世話になったし、昔からの友人ということもあって、普段から近況などメールをしていた。
今回の旅が決まって、予定を決める際に、ある雑誌で知ったリンドーゾという村のエスピゲイロ(高床式倉庫)を見てみたかった。
ポルトガルの北の端にあり、とても田舎のため、自家用車がないといけない場所であった。
カトリーヌさんたちが住んでいるアレンテージョ地方からポルトまでかなりの距離がある。
それより、もっと北方面に行ってくれということは、とても言い出せなかった。
メールの中で、カトリーヌさんたちが、北のほうの友人に会いに行くという話があったので、だめもとで頼んでみることにした。
そしたら、わざわざ行って下さることになった。
忙しい中、遠くまでほんとに申し訳ないと思うし、とてもありがたいと思った。
ほんとにありがとうございました。
《夕方と朝方のポルト》
昨日の夕方の[ポルト]は、ポルトガル誕生の地[ギマランイス]から帰って来てから見に出かけ、今日は朝の[ポルト]の景観を楽しむことにした。
心に焼きつく旅情豊かな町である。いつ来ても、特に変化があるわけではない。
しかし、いつも新しい発見ができ、奥の深さに富み飽きさせない。
訪れる人々に優しく、またすぐ舞い戻りたくなる港町だ。
15世紀のエンリケ航海王子が計画的に航海技術の育成を練り上げ、ポルトガルは海に出て世界を制覇するしか生きていけない、と実現させたポルトガルの大航海時代の幕開けがここ[ポルト]の港からだった。
その流れで、1543年の日本の種子島鉄砲伝来につながる。鎖国日本に来た最初の外国人はポルトガル人だった。
[ポルト]は、首都リスボンから北に300キロメートルのポルトガル第二都市であるが、かつてポルトガル共和国の経済危機生命を救ったのがポートワインであり、その発祥の地としても名高い。
また、ポルトガルワイン通にはたまらない港町であった。
ドウロ川に架かるドン・ルイス1世橋は、目測70メートルは有にある高さであろうか。
その上部を200メートルほど黄色い車体の地下鉄が走り、人びとが歩き対岸の町ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区に渡る。
渡り切ったそこから左手真上に、【ノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院】の展望台がそびえる。
勝手知る急坂を登れば修道院の展望台である。相棒は軽快に登って行く。おいらは老体鞭打つが、急坂は親身(しんみ)辛かった。
だが、一度この展望台から[ポルト]のパノラマ景観を見たら、誰でも息を飲み、痺(しび)れる。
ポルトに再来したら、必ずこの心地よい修道院の展望台からポルトの美しさを再認識に来るはずだ。
2002年1月に初めてポルトに来た時、〈初めての町に来たらその町の一番高い場所から町の大俯瞰を観るのが撮影取材旅の鉄則〉と決め、旅を続けている我らもそうだった。
展望台からの景観は、朝日に浮かび上がる美しい形状のドン・ルイス1世橋が眼下に広がり、鉄骨の橋の影がくっきり西面のドウロ川に映り込んでいる。
まるでフランスにあるエッフェル塔上部が消えてしまったように。川の右側にはポルトの旧市街地が朝の陽射しを受けて輝いている。
オレンジの屋根に白い壁の建物が雛壇(ひなだん)みたいに、上へ上へと積み重なるように見える。
その景観の中に、クレリゴス教会の76メートルの塔が我らの目線上に建っている。そして、旧市街地を囲むようにかつての城壁が長く連なって見えた。
ここで見ないと、ポルトの城壁は見落とされるだろう。城壁のすぐ右下をケーブルカーが急斜面にへばりついて見えた。
そして、ドウロ川の左岸には、ポートワインのワイナリーの大きな建物が見える。
かつてドウロ川上流で収穫された葡萄液を樽に詰められ、ラベーロ(帆船)で運ばれ、この地のワイナリーで世界的に名高いポートワインを誕生させた。
その記念すべき運搬帆船ラベーロが20船ほど川岸につながれ、その揺れが川面に映っていた。ポルトの大俯瞰は、朝の修道院に限る。
「けいの豆日記ノート」
リスボンより、ポルトの町が好きである。
とくに、ドウロ川周辺の街並みやにぎわいが何度きても飽きない場所である。
毎回、ポルトガルを訪れるときには、ポルトに寄ることにしている。
だが、前回は、ポルトに寄る余裕がなくて、行くことができなかった。
なので、今回のポルト訪問は、久々となる。
数年、訪れていない間にドウロ川対岸のワインセラー街にゴンドラができたという。
乗っている時間は、5分ほどだというが、明日1回は乗ってみたいと思っている。
《ドン・ガバチョ画伯とドライブ旅》
9時間走って来た砂埃の自家用車に乗った。[ポルト]を出発する前に、カーナビゲーションにドン・ガバチョ画伯が入力した。
ポルトガルのカーナビゲーションは単純無垢。白い画面に、黒い一本線と○印。
その丸の横に出た地名はポルトガル語で[Ponte de Lima(ポンテ・デ・リマ)]。
そこに向かって出発した。2013年5月11日(土)10時だった。
北のスペインとの国境近くにある辺地[ポンテ・デ・リマ]に行くため中世から近世にかけ、ポルトガル第一の宗教都市として栄えた、おいらが住みたいと思った[ブラガ]を1時間20分ほどで通り過ぎた。
ドン・ガバチョ画伯は右側通行運転のポルトガルを我がものにしていた。ガイド本にもない辺地に向かうときは、何時もワクワクする。
それがポルトガルを旅する楽しさだった。
しかし、ガバチョ画伯は走る車の量も少ない、それも狭い高速道路で迷走。
2度同じ料金所を通り、同じ料金を払った。カトリーヌと相棒は、笑いをかみ殺す。それが、まさかの3度目。我慢が、切れた。
クスクス笑いが爆発した。3人の爆笑が弾け、車内に響き渡った。ガバチョ画伯も心底照れることなく爆笑だ。
カーナビゲーションの反応が悪いのである。
慌てる旅ではない、空は抜けるようなドライブ日和の青空だった。
12時30分、ポンテ・デ・リマの駐車場に着いた。駐車場は町外れにあった。石畳の公園のような駐車場だ。
狭い辺鄙な地なので、街中は駐車禁止なのかもしれないとおいらは思った。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルの高速道路は、いつでも空いているイメージがある。
高速バスなどで走ってもすいすいと進んでいく。
料金所でも止まらないので、無料なのか、カード式なのか、とにかく早い。
日本の道路のように標識が少ないため、知らない道を走るときには、曲がる道に注意しないとぜんぜん違う場所に行ってしまう。
後ろから車が来るので、止まってみると衝突されてしまうのである。
運転する人は、気を使うので大変だと思う。
《ポンテ・デ・リマ》
意外に広い公園だった。城跡みたいに周囲が頑強に見える。広場の先にいくつかの建物が見えた。
その方行に、ガバチョさん夫婦は歩いて行く。
相棒はふたりに離れないよう気づかいながら、シャッターを切っているようだ。長い藤棚の下を通る。
真っ白い藤の花が香って来た。藤の香は、日本と同じ。郷愁を感じた。簡素な教会が大きな樹木の中に建っていた。
でも、品格があって優しかった。中に入ってみたかったが、3人は30メートル先を歩いている。
小さな町だから迷うことはないだろうが、旅を舐(なめ)ては、いけない。
その大木の連なる林の向こうに川の流れを垣間見た。
おいらは、先を急いだ。突然、左手に広い青空が全開。川幅もあり水量もある川が流れていた。
対岸に向かって150メートルは充分ありそうな眼鏡状の橋が、架かっている。
右手に広場とレストランやカフェの店がこじんまりと並ぶ町並み空間が出現した。
もうひとつ、見えた。手前川岸に、何十台もの色鮮やかな高級自家用車やレンタカーがびっしり並んでいた。川原が駐車場だった。
この位の情報は、日本のカーナビゲーションなら易々(やすやす)提供してくれるのに・・・と、おいらは呟く。その時、気付いた。
ポルトガルを旅する時は必ず着帽する目印の、約束の相棒の赤い帽子が、おいらを必死に手招いているのが見えた。
『ランチだよ〜!』と、相棒の遠い声。見つめると、ガバチョ夫婦は石畳の路地を黒い服のポニーテール娘に案内される風について行く姿が見えた。
「けいの豆日記ノート」
駐車場からローマ時代の橋が向こうに見えた。
かなり遠い場所に車を止めてしまったらしい。
工事中の建物の横をすり抜けて橋の近くの広場まで歩いていった。
美人の客引きとガバチョ画伯が話している。
ランチのおすすめのようで、メニューを見せていた。
写真を撮ろうとすると恥ずかしがって顔を避ける。
でもランチを勧めたいので、恥ずかしいながら写真に納まってくれた。
「すぐそこのレストラン」という話であったが、けっこう歩いた先であった。
こんなに奥にあるのでは、客引きがいないと客はこないだろうと思った。
相棒は、おいらとガバチョさん夫婦との距離感を測りながら進んでいるようだった。優しさを感じた。
が、途中で赤い帽子が、突然消えた。おいらは、赤帽が突然消える旅先経験に慣れていた。
そんな機敏の日常に慣れていた。鍛えられていたのだった。当然、おいらは、消えた付近のレストランだろうと察(さっ)した。
その間の、20メ―トルを追う。12時45分、腹が減っていた執念。おいらは、その店に入った。
赤い帽子は、究極の旅の最高の我らの、目印だった。
おいらは遅れた分、状況がつかめなかった。注文が終わった相棒のカメラマンに聞く。
ここからは、小声だ。「川は?」『リマ川』、「橋は?」『眼鏡みたいなアーチは31個。14世紀のローマ時代に架けられた橋だって』、
「名は?」『?』、「あの娘は?」『この店のキャッチャ―、ランチのね』、「遠かったね?」『新しく出来たお店。だから安いって、ガバチョさんから聞いたよ。
ポルトガル語を喋れるって、いいね』。その通りである・・・。
連れられて来たのは、レストラン。まず、3人で小さいグラスの生ビールを、グビッと飲む。相棒はビールより高い、水を飲む。
白い口髭が似合うガバチョさんは、特に美味そうに飲んだ。運転ご苦労さまと、おいらは声をかけた。この一杯で止めた。
すぎさんは飲んでよ、と言ってくれたが、それは大人の会話だ。辞(じ)した。ランチができる間も相棒は動く。
カウンター内の店員は若くはなかったが、清々しい顔である。中年トリオは若々しい。男を挟んで左右が女性。笑顔の写真は、素敵だった。
こんな素直な柔らかい笑みを見たのは、久し振りである。
それに、更に嬉しかったのは、おいら達ふたりの料金は、7ユーロ(1000円もしなかった)。
ランチの量は多く、肉もポテトもたっぷりでうまかった。余ったポテトを包んで貰って来た。さすが、相棒。変な外人と呼ばれていることだろう。
リマ川に沿って開けた[ポンテ・デ・リマ]は、来る時通過した宗教の町[ブラガ]から[サンチアゴ・デ・コンポステラ]へと向かう中世の巡礼路の宿場町であったという。
ポルトガル各地にあるトゥリズモ(観光案内所)がこの地にもあった。そこで、地図と資料を只(ただ・ロハ)で貰って知った。
この制度は素晴らしいサービス基地である。
日本だと全国各地の都道府県や市町村役場の観光課なのだろうか。
何処の国から来た観光客もトゥリズモマークの施設に行けば、各国向けの言語(日本語はなかった)でその地の地図や資料が整っているし、ポルトガル美女が優しく説明してくれる。
おいらはポルトガル語も通していないが、説明を聞いていると英語より頭に浸透してくるから不思議である。
辺地の小さい町だと聞いていたが、来てみると違った。人口2000人だと聞くが、のんびりこの町を楽しむ観光客が多かった。
目玉はリマ川のポンテ・ロマーナと呼ばれる橋だ。14世紀に架けられた31のアーチで造られていた。川原が駐車場になっている。
カーナビゲーションは不親切であった。川岸に行ってみた。流れる水は透明度抜群。久しく見ていなかった綺麗な川であった。
このリマ川はこれから行く、スペインとの国境にあるペネーダ・ジェレース国立公園の中にある[リンドーゾ]の先のスペインから流れて来ていた。
「けいの豆日記ノート」
ポンテ・デ・リマの町は、リンドーゾの通過点にするには、もったいない町だと思う。
リマ川の水はとてもきれいだった。
夏になると、海水浴でなく、川水浴に来る人たちでもっとにぎわうのでしょうか。
時間があれば、メガネ橋に向こうの教会にも行ってみたかった。
リマ川の河口にあるヴィナ・ド・カステロの町にも、再度行ってみたいと思っているので、
その時には、このポンテ・デ・リマの町まで足を伸ばせたらいいなと思っている。
《エスピゲイロのリンドーゾ》
14時、リンドーゾに向かう。N202とN203のふた通りのルートがあった。ガバチョさんはN203をインプットした。
リマ川沿いの道であった。ポンテ・デ・リマ→ポンテ・ダ・バルカ→リンドーゾと、ガードレールもしっかり整備された山道を進んだ。
ドン・ガバチョ画伯の運転も快調だ。そして、ポルトガル唯一の国立公園だというペネーダ・ジェレース国立公園に入る。
大きな看板があった。[リンドーゾ]まで10分もなかった。15時20分だった。
エスピゲイロの町だった。エスピゲイロとは、石造りの高床式穀物倉で北部ポルトガル独特の建造物である。
造られたのは17世紀〜18世紀と言われる、50以上ものエスピゲイロの群れは、中世の兵士のように見え、頑強だった。
現在はほとんど使われていないようだが、貴重な財産だ。エスピゲイロ群の上方に城跡があった。
ジェレース山脈の町リンドーゾの丘に堂々と建つリンドーゾ城に登ってみた。入場券@1・5ユーロ。高い所から観えた景観は素晴らしかった。
遥か下にエスピゲイロの群れがありその先にリンドーゾ集落が固まり、その背後の山肌は段々畑が上に上にと広がり伸びていた。
また、右手下にはリマ川が幅広くなっていてまるで湖水のように見える。
このスペインから流れ来る水で農業が盛んになり、収穫物を貯蔵するエスピゲイロの文化が成立したのかも知れない。
城から降りた4人はエスピゲイロ脇にある石組平屋のカフェに寄った。庭先にある石組テラスで小ジョッキ生ビールを飲んだ。
赤い耕運機でやって来た親父さんもエンジンを切りカフェに入って行く。
空は青いし木陰のテラスを吹き抜けるそよ風は、至福のひと時であった。
「けいの豆日記ノート」
ここに来る1年ほど前に、雑誌を見て、ポルトガルにエスピゲイロ(高床式倉庫)があることを知った。
高床式倉庫は、昔、日本史で習った覚えがある。
日本の独特の倉庫の方式かと思っていたら、ポルトガルにもあることを知ってびっくりした。
日本の倉庫は木造であり、ポルトガルの倉庫は、石であることの違いはあるが、形は似ている。
ネズミ避けの板など、考えることは、いっしょなのだと思う。
知ったからには、1度は見てみたいと思った。
車でないといけない場所であるので、あきらめてはいたが、チャンスに巡り合い、とてもよかったと思う。
《ポルトの夜》
16時35分リンドーゾを発ちポルトに向かう。途中[ブラガ]で大渋滞に捕まる。
サッカーの試合があるようで、道路が駐車場になるポルトガル。道は、ハチャメチャだった。
19時10分ポルトの宿に着いた。一日運転ご苦労さまでした、ドン・ガバチョ画伯。20時、夕刻の町に出てピザ屋に入る。
中は満員、テレビ中継のサッカーに、声も身体も揺れ動く。
そして、生ビールの大ジョッキ―を満喫だ。
水より安い生ビール天国である。チャゥ!(バイ、バイ!)
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2014年4月に掲載いたしました。
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