「ポー君の旅日記」 ☆ 最もポルトガルらしい村モンサント2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2016紀行文・3≫
=== 第3章●モンサント起点の旅 === 家の壁や屋根は大きな石だった
《子供たちとの出会いとカタカタ》
オーナーと約束した旅行バック2つを宿に置き、腹いっぱいのモーニングを食べ、使った食器は洗って、宿の玄関ドアの鍵をかけ外に出た。
今日19日(木)も、真っ青な空が広がっていた。
石畳の坂道を登って宿のオーナー経営のレストランで、明後日21日には〈モンサント〉から戻って来ると、オーナーには伝えてあるからよろしくと鍵を店員に渡す。
相棒とふたりの女性店員の笑顔の記念写真を撮って別れた。
長閑な気持ちの良い朝であった・・・。
(しかし ♪ジャ、ジャ、ジャ~ン♪ 二日後、激怒の嵐が待っていた)
バスターミナルに通じる道は、意外にも車の量が多い。
午後の町の様子しか知らない我らだったから、午前中の車の多さに少し戸惑った。
カステロ・ブランコは、北の上部側と東の右側は隣国スペインに接し、西の左側と南の下部側は大西洋に接しているポルトガル。
その南北の真ん中あたりのベイラ・バイシャ地方の中心都市だった。
そのため午前中は、思っていたより人びとが動く時間帯である。
信号が青に変わると引率されたお揃いの水色のキャップにガウンの20人程の幼稚園児が、横断歩道を渡って広い公園に入って行った。
当然、相棒は後を追い、引率の若い女性に撮影許可を語りかけている。
芝生で覆われた公園は、金網で囲まれていた。ポルトガルは子供を守ることに徹底している。
高い金網で囲まれた幼稚園や小学校は、毎日の登校時には親の同伴、下校時も親の迎えが決められている。
都会でも農村でも漁村でも、それが徹底していた。
子供たちに事件が起きてからでは遅い!のだ。
どうも日本人は、喉元過ぎれば熱さを忘れる傾向がある。冷めやすいのだ。徹底さには、喉元過ぎればの安易さは邪魔である。
子供たちの笑顔の姿を見るにつけ、ポルトガルに学ばなければと来るたびに思うおいらだった。
カタカタと嘴(くちばし)を打ち鳴らす音が、響く。
コウノトリ達も食事時は賑やかである。
巣で待つコウノトリが空を飛ぶコウノトリに向かってカタカタと、鳴く。鳴く、と書くと鳴き声だ。
しかし、コウノトリは大人になると声が出なくなるらしい。
上下の嘴を打ち鳴らすことで伝達。
それも打ち鳴らす強弱音や打ち鳴らす速遅音で感情伝達をしているようにおいらにも、聞こえるしそう見える。
昨日見たよりコウノトリの数が多く目に飛び込んで来た。
食事時は、どの巣にも2羽の姿があった。
子育てに忙しそうだった。
ここ、カステロ・ブランコは美しい町である。
しかし観光地ではない。半日、旧市街地を回れば充分だが、ここから48km隣国スペイン国境に近い所に、石の村と呼ばれる〈モンサント〉がある。
この地に行くには、カステロ・ブランコで一泊しなければ〈モンサント〉には行けない(レンタカーで行けば別だが)。
おいらが生まれた1939年の前年、1938年に[ポルトガルで最もポルトガルらしい村]として選ばれ表彰された歴史的な所だ。
ポルトガルらしいの、らしいの意味が良く理解できないが、ポルトガル観光地の人気地であった。
昨日下調べしておいた今日の〈モンサント〉行きバスは2便。12時25分と17時15分だ。
バスターミナル内は座る椅子もないほどの混みよう。おいらの仕事は、荷物番。切符を買った相棒が戻って来た。
出発まで1時間ほどあった。通りの向こうのカフェまで行って来ると告げ出口に向かう。
その時バスが着いて乗客が入って来た。その中に日本人がふたりいた。三日目で会った初めての日本人である。
気付いていなので、声もかけずにカフェへ。
頭上を、カタカタ音が幾つも舞っていた。
「けいの豆日記ノート」
前日に、モンサント行きのバスの時間を確認しにいった。
ガイド本には、平日は、11時半発であったが、聞いた時間は12時半発であった。
ガイド本の時間はあてにならないことは、承知のことである。
1時間遅いのであれば、待てばいいが、行ってしまったバスは、どうしようもない。
10年も前の話だが、1日に1本しかないバスを見逃してしまい、もう1泊するためにホテルに戻ったこともある。
《恐れ入谷の鬼子母神》
カフェ前の黄色い椅子に座って、1ユーロビールを飲んだ。
サグレス・ミニミニビール瓶。百均温度計は、30℃。水より安い瓶ビールが喉をゴクリと鳴らす。
相棒に冷えびえ7up缶を買って、バスターミナルに戻った。
さっきの日本人のご婦人ふたりと相棒は楽しそうに話をしていた。
この輪の中に、男がしゃしゃり出ない方がいい。楽しい会話が壊れてしまう。
少し離れた椅子でおいらはメモノートに記憶を書き留める。
出発20分前、相棒からの声がかかる。
カメラマンは目配りに長けているから、おいらの姿はとっくにお見通しだ。
ふたりのご婦人に紹介された。76歳の荷物番です、と言うとふたりは声をあげて笑った。
〈モンサント〉行きのバスは12時25分に出発。
ふたりは手を振って送ってくれた。出発間もなく相棒は、7upでおにぎりを食べだした。
一昨日に機内夜食で出たシャケおにぎりだった。食べる?と言われたが、やめた。
「腐っていないよ、これがお昼だからね。」と言い、おいしそうに冷えた7upを一口飲んだ。
恐れ入谷の鬼子母神(おそれいりやのきしもじん)だった。節約家カメラマンのバイタリティには、恐れ入りました。
「けいの豆日記ノート」
1時間も前からバスターミナルで待っていた。
撮影した人にあげる折鶴の作り置きもあきたころ、バスターミナルに2人の女性が入ってくるのが見えた。
日本人かと思うと、台湾からとかの人が多いので、「こんにちは。」と声をかけてみる。
日本人であった。今日、モンサントから戻り、エヴォラに向かうという。
モンサントのホテルの名前を聞いてびっくり・・・同じホテルだった。
とても、いいホテルでお勧めだという。
ホテルの女性オーナーや、お手伝いの人や、飼っている犬の名前など聞いた。
東京方面からの姉妹での旅だという。
自由気ままな旅をいつもしているようだった。
もっともっと、話を聞きたかったが、バスの時間が来てしまった。
《あれが、モンサントだった》
車窓にオリーブ畑や羊の群れが吹き飛んで行く草原をひた走る大型観光バスはほぼ満席。
1時間ほど走ったところで運転手のアナウンスが2度あって、停まった。
モンサントまでは1時間半はかかる筈だった。
停まったのは花が咲き乱れる公園横のイダーニャノバのバスターミナルだった。
そこに、中型バスが待っていた。15人程が乗りかえた。
我らが乗って来たバスは、モンサント行き直行便ではなかった。
相棒が乗り換えだと、つついて教えてくれなかったら、何処に連れて行かれたことか。
旅には、決めつけが怖い。思い込みも恐ろしい。
特に乗り物時間の、決めつけ・思い込みは禁物だ。飛行機だって列車だってバスだって、刻々と出発時間が変わる。
乗り換えだってある。特に、搭乗時間は変わらないのがおかしいほど変わる。
そのため、常にアナウンスには耳の穴かっぽじって聞き耳を立てておかねばならぬ。
マジシャンみたいなジャンボ耳が必要だ。聞き逃しは命取りになるから、ご用心御用心。
バスを乗り替え細い道を30分、緑色の平原に黒い幹のコルク樫(かし)の林が続く。
その向こうにゴツゴツした山肌の丘が見え隠れする。バスは直線的に進まず円を描くように丘に近づいて行く。
そして、丘は岩石肌だらけの山となる。その裾野の草原には、オリーブの畑が広がり、オレンジの屋根に白い壁の家々が太陽に照り輝く。
そのポルトガルらしい長閑な車窓風景が一変した。バスは急に山裾に急接近した。
その背後の山は、ぎざぎざした岩の稜線と裾野に下る斜面は石魂肌である。
しかも、その所々に巨岩がひっかかかり、異様にでかく見える。
どう見ても車窓からの光景では、ここに人が住めるとは思えない。
バスはひと呼吸し、脇をしめ、巨岩肌の狭い坂道に挑む。
山の右手は、急斜面に露出した岩肌が広がり、左手には、巨岩にこびり着くような家々が積み重なる集落が見えてくる。
それが、山全体が青い空にすっぽり抱かれた人気スポット〈モンサント〉であった。
「けいの豆日記ノート」
モンサント行きのバスは、乗り換えが必要だった。
今日は、なにかの記念日とかで、いつものバスの時間と違っていたのかもしれない。
イダーニャ・ノヴァの町はけっこう大きな町だった。
後日、訪れる予定のイダーニャ・ヴェリャと名前は似ているが、規模がぜんぜんちがう町である。
町の中心をバスで通ったが、大きな教会があった。
見てみたい衝動にかられたが、目的がモンサントなので、あきらめた。
《赤いサイドバック》
バスは〈モンサント〉を見上げながら、異様な光景の巨岩にへばりつくような家並み集落に向かって、登って行く。
12年前の2月、カステロ・ブランコからタクシーで来て、1時間ほど歩きまわって撮影。
その時は、フィルム撮影時代だった。
冬場だったので大きな岩には、緑の苔(こけ)が吸いつくように密集して生え、その光景は古代空間を彷彿(ほうふつ)させた。
慌(あわ)ただしい撮影をし、待っていてくれたタクシーでカステロ・ブランコに戻ったことが、走馬灯のように思い出された。
その時の印象が強烈で、カメラマンはもう一度泊まりがけで来ようと決めた。おいらもそう思った。
その夢の実現に12年がかかった。
その大きな岩だらけの村の、天空の玄関口とも言える小さな石畳広場がモンサントバス停だった。
下車したのは7人。残った乗客たちは何処まで行くのだろう。
バスは狭い石畳の坂道をゆっくり下って行った。
相棒はカメラ機材やノートパソコンなどの商売道具を入れた、真っ赤なサイドバックを転がしながら急な石畳の坂道を登って行く。
ノートパソコンにその日撮影した映像を必ず収録する。
貴重な映像保存が目的だった。
だから、この重い赤いバックだけは何時も手元から離さない。
坂道は辛いはずなのに、顔は晴れ晴れ、ご機嫌麗しい。
今回のスケジュールを企画したのもカメラマンである。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルの旅の3回目に、初めてモンサントを訪れた。
岩の村の情報を聞いて、ぜひ、行きたくなったのだった。
ガイド本には、1時間もあれば、村を1周できるということが書いてあり、小さい村であまり見るとこがないのかと思っていた。
その当時には、ホテルがポサーザ(国営ホテル)しかなく、バスも夕方しかなかった。
ケチケチの旅には、ポサーザは料金が高いので宿泊は無理だった。
なので、カステロ・ブランコに泊まって、タクシーで行くことにした。
タクシーに1時間待ってもらって、モンサントの村を撮影しながら歩いた。
冬場だったこともあり、コケの生えた岩は緑色になっていて、雰囲気のある画像になった。
でも、あれからずっと、また行ってみたいと思っていた。
目玉の一つは、12年振りで訪ねる〈モンサント〉だった。
前述した12年前のフィルム映像をデジタル映像で残したかった。
2001年からポルトガルだけを追い求めて来た相棒には、雑誌や映画やテレビ関係者からポルトガル写真の貸出依頼が多い。
デジタル映像だとすぐ注文映像を選択しパソコンで送れる。
フィルムだと時間がかかる。ポルトガルの北から南までのほとんどの市町村は歩き回って撮って来た。
世界遺産映像もほとんどある。
今回もモンサント周辺の人口50人程の歴史的村まで足を延ばす計画を立てていた。
いつものことだが、アポを取って現地に入ったことはない。どんな映像が撮れるか判らないことが楽しみだった。
ぶっつけ本番を真髄としているその理由(わけ)は、ポルトガルの人びとの日常生活を歩き回って撮る。
素顔の温かい人物撮影には、一日二万歩が必要であった。
だから、アポは我らにはいらない。撮影旅には、運不運が付きものだが、それを大切にした撮影取材旅を続けたいと思っている。
ところで、撮影に一番大切なのはギンギラギンのお天気だ。
お任せあれ、おいらは昔から金と力はないが、[晴れ男]として名を馳せて来たお天気野郎なのだ。
その天気番と荷物番で、もう16年の撮影取材旅進行中だ。だが懸念がひとつある。
今日は5月19日(快晴)、あと丸3カ月で77歳。
思えば遠くに来たものだ。
ここはヨーロッパ最西端、ユーラシア大陸西の果ての国、ポルトガル共和国。
ロカ岬に立ち大西洋を眺め【ここに地果て、海始まる】の言葉が脳裏を横切れば、もうおいら詩人である。
「けいの豆日記ノート」
今回の旅は、スペイン国境ちかくにある、歴史的な村々を訪れることにあった。
ガイド本には、モンサントしか記載がない。
でも、近くには、小さな歴史のある村がたくさんあるという。
今回、モンサントに行くことにしたので、その周りの歴史的な村々にも行こうと考えていた。
モンサントの朝日、夕日もぜひ見たかったので、2泊の予定である。
2日あれば、どちらかは見れるだろうと、思ったのである。
《女人の館》
〈モンサント〉は、大西洋とは反対側の隣国スペイン国境近くにある聖なるお山として、崇められてきた歴史的な聖地であった。
1139年国王に即位しポルトガル建国をしたアフォンソ・エンリケス王が1174年にイスラム教徒をこの地から排撃した。
1190年には、1185年に即位したドン・サンショ1世の命でテンプル騎士団の統治下に置かれた。
また、1279年に即位したドン・ディニス1世によって城が山頂に再建されたのだ。
その山頂の城の中腹に築かれた〈モンサント〉が、1938年に【ポルトガルで最もポルトガルらしい村】に選ばれた。
らしい村とは、どんな所か、その秘密を探り当てたいと思う。
その前に、ふた晩お世話になる宿「カーサピーレスマテウン」で、荷を解かねばならぬ。
急坂を登ると小さな広場があり、その左手にデンと構えた石積みの古典的教会が建っている。
それが、ミゼリコルディア教会。この教会右手に草原に通じる生活道路がある。
その出入り口みたいな所に、石積みの建物に挟まれた白い壁の3階建がひと際目立って見える。
我らのふた晩の宿だ。白い壁に4枚の緑色に塗られた扉が、枠状に石積みで囲まれている。
相棒がベルを押すと、足早な足音が、若い。
イザベルに違いない。KEIKO!第一声が明るく弾んだ。
女人の館の3人は相棒に、お任せだった。
【ありがとう・旨い・おはよう・さようなら・はい・いいえ・セニョール・セニョーラ】言葉はこれで充分。
会話は、ボディアクションと笑顔。これでおいらは、ポルトガルで生きて来た。
大切なのは、いつも感謝の気持ちと笑顔の2乗が大切であった。
どうも歳のせいか耳が遠くなり、相手の発音が聞き取り難くなった(最高の嘘)。
2階の部屋は素晴らしい。三つ星ホテル並みの民宿である。
広い洗濯干し場のテラスの先は、裾野の大草原が広がり、その遥か遠くの山並みは、水平線のように見える。
朝日夕日の撮影場所を探しに出かけようと思う。階下のたまり場から4人の笑い声が聞こえてくる。
犬の鳴き声も。ファニーだろう。さっき、イザベルが玄関ドアを開けた時、外に飛び出した犬にファニーと叫んだ。
相棒が探し当てた今夜の宿は、大きな花丸マークかもしれない。
「けいの豆日記ノート」
以前は、ホテルは高いポサーザ(国営ホテル)しかなかったが、今回ネットで検索すると、いくつものホテルというか民宿ぽいホテルができていた。
テレビなどで、人気がでて、ホテルも増えたのだと思う。
ネットの情報だけでは、どんなホテルなのかが、設備と外観しかわからないが、荷物を持って歩くのはたいへんなので、入口から近いホテルを選んだ。
バス停の前の教会の横にある宿のインターフォンを鳴らすと、にこやかに出迎えてくれた。
部屋を案内してくれた。ベットの数によって値段がちがうという。
日本から、ネットで申し込んだのは、50ユーロの部屋であったが、ベット2つの60ユーロの部屋にした。
その部屋の前はテラスになっており、見晴らしもよく、洗濯物もできるという。
女性オーナーはポルトガル語しかできないが、お手伝いのイザベルさんは、英語もできるし、丁寧に説明をしてくれる。
カステロ・ブランコのバスターミナルであったあの昨日泊まった2人の女性から、オリガミの箱を作ってもらったという。
動物も作ってくれたという。
うれしそうに見せてくれた。
きっと、世代の似ている2人と話が弾んだのだろうと思う。
言葉の壁などなんとでもなるものである。
《カステロからの想い》
2階テラスからの女人3人の満面の笑顔に見送られ、山頂のカステロ(城跡)に向かう。
メインストリートは細い石畳が小刻みに曲がっている。
左右の家はすべて石組様式で、ほとんどが民家。商店やレストランは5軒ほどしか見当たらない。ホテルや民宿は6軒ほど見た。
石畳はきめ細やかな造りで、塵ひとつ、吸い殻一本落ちていない。
あったら、すぐ処理する老いた住人達の美意識かもしれない。その道の角角には、3mも5mもあろう巨石が道を更に窄(すぼ)める。
道巾を太めたり、細めたりして頂上の城に向かう工夫がある。
ここは隣国の侵略を防御する要塞だったと思う。
大勢の兵士侵略を防御する術がこの村にはあったに違いない。
道を歩く住民の姿は、おばあさん3人は見た。
犬の散歩と家の前の薔薇鉢にジョーロ水。
自作人形を自宅出口の石階段で売る可愛いおばあさんだった。
太陽光線は直下に射る。32℃の暑さ。
夏暑く、冬寒し。
急斜面の岩肌山道を登ること30分、頂上は意外と広いカステロ(城跡)が残っていた。
美しい石組の城壁だった。日本のお城の城塞石組のようなきめ細やかさだった。
この築城には時間と財力がかかったと思う。城跡からの下界景観は絶品だった。
日本の4分の1の面積しかないポルトガルだが、ここからの眺めは天下をとった城主のようだ。
裾野に広がる草原の緑の広大さ、そこに流れる大地の風、それに山の中腹に一塊に見える小さな〈モンサント〉は美しかった。
巨岩に囲まれたオレンジの屋根群は、蜜蜂が群がる花園のように見えた。
12年前に聞いたこと、それは〈モンサント〉の人口だった。連れて来てくれたタクシー運転手は言った。
100人いるかどうか。裾野に家を建てて住む人が多くなったからね。観光だけで食って行けないもんね。
コルク生産やオリーブ生産、葡萄畑でワイン作り。大地は恵みをくれるから若者は山を下るのさ。
12年前の状況がこれだった。モンサント中を歩き回ったが、おばあさんの姿しか見られない。
宿の女人達は、76歳と68歳の老人二人と、イザベル25歳は裾野から日々通ってきていた。
「けいの豆日記ノート」
以前に来た時には、1時間しかなかったので、山の上の城まで登ることができなかった。
山道の手前まで来てUターンして、村の入り口まで降りてきたのである。
なので、まず最初に山の上の城跡に登ろうと思った。
体力がいりそうな場所は、先に行っておかないと疲れて行けなくなると困るのである。
結構な山道であった。
頭の上には、今にも落ちそうな岩がいっぱいである。
解説で読んだが、地中のマグマが冷やされ固まったものが、後に地上に表れたものだという。
なので、地上に出ているのは、ほんの1部分なので落ちそうで落ちないのである。
《夕焼けのポジション》
カステロから下り、来る時知ったおばあさんの小さな小さな店で、サグレスビール(1ユーロ)、7up(1ユーロ)、1・5リットルの水(0・9ユーロ)、
イチゴ10個大(0・8ユーロ)を買って宿に戻る。
17時だった。万歩計は19064歩。今日も、76歳頑張った。
これでシャワーを浴びて、サグレスビールだ。でも、そうは問屋が卸さない。
夕日のポジション探しに行くよ~! 何と優しいお言葉だった。脱いだ靴に再び足を突っ込んだ。
夕日を受けて、茜色に染まる〈モンサント〉を撮りたいカメラマン魂にお供した。太陽の落日は21時前だ。
日本では、考えられない落日の時間だった。この時間帯になると、裾野からの涼しい風が這い上がって来る。
落日前の時間帯が、昼間32℃の幻影を溶かして行く。自然の恵みに感謝したくなる。
宿に戻って、68才ナッティおばさんに聞く。夕日朝日はあんた達の、部屋の洗濯物の干し場。
まったく、もう、最良のベランダよ!。そんなことは、早く聞きな~!と怒られた。
夕日が落ちる夕焼け空。時計塔の上に、鶏のオブジェが夕日に輝き浮かんで舞っていた。
それがこの〈モンサント〉に与えられた、1938年《ポルトガルで最もポルトガルらしい村》として表彰された、その時のトロフィーであった。
今から78年前の輝かしい村の宝物である。
思うに78年前は、子供や若者がいっぱいで明るい賑やかな〈モンサント〉村だったことだろう。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2016年10月に掲載いたしました。
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