「ポー君の旅日記」 ☆ にぎやかなサンタ・カタリーナ通りのポルト17 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2016紀行文・17≫
=== 第6章●ポルト起点の旅・4 === 午後にYUKOさんご夫婦に会えたのは8年振りであった。
《テレサ・テンの歌声》
朝起きれば、まず宿の窓を開ける旅を続けていた。
5月26日(木)、ポルトガル共和国の首都リスボンから大西洋沿岸を300km北上した第二都市、
あの歴史的に名高い〔ポルトガル大航海時代〕の港町〈ポルト〉の空は晴れわたっていた。
7時40分にモーニング、8時40分に宿〔ホテルジラソル〕を出て石畳の坂道を相棒のカメラマンはぐんぐん登る。
野老(76歳)は、「さて今日も始まったか」とあえて声を出して呟(つぶや)き、エンジン全開の後ろ姿を目で追った。
今朝(けさ)も、モ―二ングを食べながらのミーティングで、大雑把(おおざっぱ)な今日の行動予定を相棒がもそもそと喋(しゃべ)る。
打ち合わせと言っても、ふたりだけ。入念で繊細な行動予定は我らには無意味であった。
被写体の〔動き〕次第でころころ変わる。光の〔具合〕も関係する。
風景だったら、午前が駄目なら午後に撮ればいいが、相棒が追い求めているのは〔ポルトガル〕で生活する〔人間〕の生き方暮らし方、生業(なりわい)。
つまり人間ひと様の表情やその佇(たたず)まいを追いかけ映像に残す作業を2001年9月22日から続けて来た。
〔撮影取材旅〕に欠かせない大切な要素の一つは天候だ。光の具合ひとつで映像が生きる。
その拘(こだわ)りは、映像作家ならば当然である。そして最も大切なのは、現場での瞬発頭脳動作判断と予知能力判断である。
これは、カメラマンには欠かせない瞬時観察力機能要素であり〔命〕であった。
〈ポルト〉市民の台所と呼ばれて来た【ボリャオン市場】の前で、相棒は待っていてくれた。
と野老は思ったが、市場の1851年から使われている鉄製の大門が、日曜定休のはずが木曜日なのに閉まっていた。
『午後、YUKOさんに会ったとき、聞けばわかるかもね。予定通り〔サンタ・カタリーナ通り〕に行こうか』と優しく野老に声をかけてきた。
野老の歳を案じてのことか。初めてポルトガルに来た時、おいら62歳は若かった。
〔ボリャオン市場〕の1ブロック東側にある歩行者専用の【Rua de Santa Catarina】に向かう。
昔は裕福な人々の散策通りだったらしい。今は観光客も多いショッピングの中心街である。
〔通り〕の南端付近にアールヌーヴォ様式の内装が素敵な1912年創業の【カフェ・マジェスティック】がある。
何度もこの店の前を通り覗き込む機会があったが、いつも客で一杯。外観を見るだけだった。
ポルトガルの商店街は日曜休業の店が多い。
そのため〔日曜は駄目よ〕に引っかかる観光客は多く、泣かされる。
高級ホテル宿泊者はホテルのレストランで食べればいいが、我らが泊まる宿は、ホテルの名がついていても、夕食がないのがほとんどだ。
町のレストランは平然と閉まってしまう店が多いため、昼食夜食時は混迷(こんめい)する。
だが、日本人には都合が良い、穴場はあった。
中華店だった。どの町に行っても必ず日曜でも開店している中華店はある。
もう何代もポルトガルで生まれ育った家族的な中華店が多いが、日本のうまい中華の味を求めなければ、ポルトガル中華味の店は、安くて量もあり我らは助かっていた。
中でも一番の想いは、2003年2月昼時に「ニ―ハオ!」と声を掛け初めて入った中華店だ。
なかに入ると、台湾出身の歌姫テレサ・テンの♪〔時の流れに身をまかせ〕♪を中国語で歌う彼女の声が流れている。
没後(1995年没)8年がたっていた。
城壁に囲まれたアレンテージョの古都〈エヴォラ〉の中華店・財宝酒楼が、今でも忘れられない。
〈エヴォラ〉生まれの娘たちはニ代・三代目だった。
野老は日本語で彼女たち4人は中国語(台湾語)で、♪〔つぐない〕〔愛人〕〔空港〕♪を一緒に歌った。
夜食も我らはこの店で食べた。帰路に相棒が千代紙を出し、折った〔折鶴〕を記念に彼女たちの掌(てのひら)に飛ばした。
あの娘たちは元気だろうか。13年もたっていた。悲しいのは、いま中華店に入っても、テレサ・テンの歌声はなかった。
「けいの豆日記ノート」
2日前は雨模様のボニャオン市場だったので、晴れている日にもう1度行ってみようと思った。
閉まっていたが、時間が早いせいなのかと思い、サンタ・カタリーナ通りを歩こうと思った。
午後からの予定の前にサンタ・カタリーナ通りに行ってみたかった。
いつも入口付近ばかりで、奥まで行ったことがなかったので、行ってみようと思ったのである。
早朝の通りには、人影も少なく、店も開いていなかった。
少し歩くうちにだんだん店が開いてきた。
通りの奥のほうから、スーツケースをガラガラとひく人たちが歩いてくる。
この辺りにも安いホテルやペンサオンがあるのだろう。
しばらく歩いてUターンして、ボニャオン市場を見に行ったがやはり閉まっていた。
休日でなく木曜日なのになぜなのか・・・?
《胡麻入り醤油味煎餅》
我らの〔撮影取材旅〕は、ケチケチ旅でもあった。
朝は無料の〔モーニング〕を食べ、昼は町中(まちなか)の〔食堂〕か、撮影に夢中になり昼時を見過ごした場合は、
相棒必殺技である持参の〔ゴマ入り醤油味煎餅〕をあたり一面に醤油と胡麻の香りを撒き散らしパリパリ食べる。
公園のベンチで食べていても、通行人は必ずふたつの臭いに振り向く。
我らにとっては、煎餅はもち米で作ってあるため、腹持ちがよく助かる。
だが、人生初めて嗅(か)ぐこの臭いは、香りではなさそうだった。
野老は熱中症にかかって相棒に迷惑をかけてはと、1ユーロサグレス生ビールを水がわりに飲む。
夜食は〔ス−パーマーケット〕での量(はか)り売りで購入だ。
たとえば、ハム2枚やレタスの葉っぱの量り売り、薄っぺらなシーチキン1缶を購入し、
日本から持参のキューピーマヨネーズでのサラダと水よリ安い種類豊富な1.5ユーロワインで、ホテルの部屋で〔優雅な〕お夜食をする。
甘いアルコールしか飲めない相棒は、生ビールより高い〔水〕を飲む。
美味しいポルトガル料理のレストランで、〈ポルト〉産で名高い〔ポートワイン〕を飲みながらのお食事を知らぬ訳がないふたりだった。
ただ我らは、美味しいポルトガル料理を食べる旅ではなく、美味しいポートワインを味わう旅でもない、只管(ひたすら)歩き続けるただそればかりの〔撮影取材旅〕である。
レンタカーを使う手もあるが車に乗るとどうしても先を急ぐ旅になるし、気ままに狭い路地に入って思わぬ光景や人びとに出会うことができない。
そのため、我らは腰につけて歩く〔万歩計の旅〕を続けて来た。
〔一日二万歩の撮影旅〕が、我らのキャッチコピーである。
特に2001年の旅から始まり今回の2016年旅(9回目)は、野老にとっては記念すべき62歳〜76歳の〔ポルトガル紀行旅〕であった。
若々しく見える相棒も、孫娘がいるお歳だ。
毎年〔名古屋市民ギャラリー栄〕で開催している【愛しのポルトガル写真展』も、今年でpart25回目。
毎年楽しみしに待っていて下さる方々がいる。
その方々に喜んでいただきたいと、今年も3年振りでやって来たのだった。
その間、102歳の母の介護を3年間びっしり看続けてきた。
「けいの豆日記ノート」
甘いお菓子より、せんべい類が好きなので、いつもたくさんのせんべいを持って行く。
醤油味だけでなくゴマ入りのほうが好きなので、「堅焼きゴマせんべい」の個別包装のものを探すが、最近、スーパーで見かけなくなった。
まとめて入っているものはあるが、それだと、大きな袋全部を持ち歩かなくてはならない。
数枚だけ持って行きたいので、個別包装がいいのである。
それに、興味を持った人にもあげることができる。
せんべいは硬すぎて、評判はいまいちだが、「柿の種」は、けっこう好きなようである。
最近の旅では、タラカマ(平たくて細長いつまみ)とか、魚肉ソーセージを持って行く。
小腹が空いたときに食べるのにいいと思う。
でも、昔ほど菓子は持って行かなくなった。
あまり小腹が空かなくなったのである。
年なのかなあ。
《惚れ惚れ、アズレージョ》
〔サンタ・カタリーナ通り〕には〈ポルト〉の町に走る地下鉄6路線のうちの4路線が停まる地下鉄〔カタリーナ駅〕がある。
この駅には6路線のうち、青色(A線)・赤色(B線)・緑色(C線)・紫色(E線)の4路線が停まる。
その駅舎の真上当たりにあるのが【アルマス礼拝堂】。
その南面の壁一面を飾る大きな〔アズレージョ・装飾タイル〕に、南面路地の東側奥から朝日がスポットライトのように差し込み、壁面を見事に浮かび上げた。
その一瞬に我らは遭遇し歓喜した。その見事な偶然の演出に思わず野老は拍手を送っていた。
壁面を飾る見事なアズレージョの青き色彩は、日本の草木染めのように渋く輝き、その惚れ惚れする見応(みごた)えに酔って痺(しび)れた。
ポルトガル中にある野老が好きな【アズレージョ】10指に、〈ポルト〉ではこの〔アルマス礼拝堂〕と〔サン・ベント駅〕と〔カルモ教会〕が入る。
1時間観ていても飽きないアズレージョだった。
南北に延びる早朝の薄暗い〔サンタ・カタリーナ通り〕にある〔アルマス礼拝堂〕。
その礼拝堂の南面にある路地を東から西に向かって朝の太陽光線が走り抜けたのだった。
薄暗い〔サンタ・カタリーナ通り〕は、この1本の光の帯の他にも、幾筋もの薄暗い〔通り〕を鋭利な刃物で切り裂く光の帯が走っていた。
〔通り〕は、息を吹き返したように明るくなった。
その通りに面した〔礼拝堂〕のファサード(正面入り口)壁面もアズレージョが飾られ、入口のドアを押して中に入るとミサが行われている。
〔礼拝堂〕は奥が深く、正面には天井から大きなシャンデリアが吊るされ、しかも日曜日でもないのに満席。厳粛さが深く、写真を撮る雰囲気ではなかった。
大きなマリア像の横でサングラス姿の神父さんが語る重厚な声が狭い礼拝堂に響いていた。
「けいの豆日記ノート」
アズレージョの壁で覆われたアルマス礼拝堂の内部を見たくて、中に入ってみた。
ミサの最中で、大勢の人でいっぱいであった。
今日は、日曜日でもないのにミサが行われていること不思議であった。
真ん中の赤い通路をどんどん前に行き、神父さんを数枚撮り、ささっと帰ってきた。
失礼な日本人を許してくだされ・・・ア〜メン・・・
《百色眼鏡》
〔サンタ・カタリーナ通り〕の顔は、朝昼夜と百色眼鏡(ひゃくいろめがね)のように華々しく雑多に美しく変化(へんげ)していった。
〔アルマス礼拝堂〕を出ると、出入口に青いスカーフに豹柄衣装の物乞い女性が座ったまま黙って手を差し伸べ、貨幣を握りしめる。
ポルトガル共和国の通貨単位はユーロとセント〔エウロ(€)とセンティモ(¢)〕。
1ユーロ=100セント≒128円(レートは変動します)である。
物乞いさんが手にするのは、1セント・2セント・5セントぐらいか。
セントは他に、10セント・20セント・50セント。ユーロは、1ユーロと2ユーロはコイン。
5ユーロ・10ユーロ・20ユーロ・50ユーロ・100ユーロ・200ユーロ・500ユーロは紙幣である。
地下鉄の車両にも赤ん坊を抱きお金を無心する物乞い女性も多い。始めはびっくりしたが、今は慣れた。
〔礼拝堂〕の向かいの店の前では自作品のスケッチ画を並べる青年がいる。
一日何枚売れることだろう。
スケッチは勿論、ポルトガル第二都市〈ポルト〉の路面電車・ドウロ川に架かるドン・ルイス1世橋・クレリゴス教会・カテドラル・ファドのファディスタ(歌い手)などの景観が描かれる。ランダムに展示したスケッチを観終わると相棒は狭いお土産屋を覗き、色彩鮮やかな鰯(いわし)の形をした陶器を手に取った。
裏面に磁石がついた陶器を何匹か選ぶ。
色彩デザインが1匹ずつ違った。親父さんに交渉し買う。
野老は知らないが相棒は『負けてネ』の単語は調べ実行しているに違いない。
暮の写真展展示場で売るのか。
そんな、みみっちいことは相棒はしない。
新聞紙に1匹ずつ丁寧に包み込む親父さんは、開店早々の客に嬉しそうだ。
店先にきれいに並べられた100個ほどの磁石付きアズレージョ模様タイルが、朝日に当たって心地よい。
通りの西側の建物は陽射しを一杯に受け、東側の建物はまだ陽射しが当たらず暗い。人の歩く姿は疎(まば)らだが、朝の散歩を楽しむ観光客が増えて来た。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルに行ってもお土産は、ほとんど買わないことにしている。
ほしいものは、いっぱいある。
でも、ほしいままに買うとたいへんなことになるのである。
以前に帰りの飛行場での荷物重量オーバーで、スーツケースを広げての重さ調節が必要になった。
そのまま、持ち込むと超過料金が驚くほど高いのである。
あちこちで、もらったり、集めた雑誌・新聞などは、捨てていくことになり、手荷物で持てそうなものは、別に入れたりして、苦労していた。
数回、失敗して、やっと気が付いた。
スーツケースが大きいからダメだということに。
Lサイズのスーツケースだと、たくさん入りすぎて、オーバーしてしまうのである。
なので、Mサイズのスーツケースに替え、少しでも軽いように布製のものにした。
重量に気を付けているせいか、最近では、空港での店開きはなくなったのである。
《黒づくめの艶色コンサート》
昼近くになると〔百色眼鏡〕がきらきら輝く要素を手品のように増やし〔サンタ・カタリーナ通り〕の景観を一変させた。
路上でミニコンサートが始まる。
手に手にアコ―ディオン・クラシックギター(ヴィオラ)・ポルトガルギター(ギターラ)などを奏で歌う8人の女性たちは、
市内にあるポルト大学の学生さんのようだ。
その黒い制服に黒いストッキング黒い靴姿の大学生たちのステージは、自分たちが羽織っていた黒いマントを石畳に細長く敷いたものだ。
ポルトガルの大学生の象徴は黒マント。黒マントの利用法は色々あるようだ。
その黒マントを靴で踏みつけ奏で歌う女子学生たちの歌声が狭く細長い〔サンタ・カタリーナ通り〕を支配した。
歌声を聞いていて、今日は何か〔祝いごと日〕なのだろうかと、野老は不図(ふと)思う。
日曜日でもないのに不思議な光景であったが、見ていて楽しかった。相棒は当然、撮りまくっていた。
そのお礼に演奏が終わった後、千代紙で折った〔折鶴〕を一人ひとりに『オブリガーダ!』と手渡した。
その突然のプレゼントに大学生の彼女たちは狂喜してくれた。
〔サンタ・カタリーナ通り〕は沢山の露天が楽しめる。サングラスを売るおばあちゃんと孫娘。
子供に配られる風船キューブ作りのピエロ。
昼飯は〔通り〕にある最近出来たという100店ほどの店が入る洒落たショッピングセンター【ヴィア・カタリーナ】に入る。
文房具などの小物売り店舗前では、客寄せ力士姿衣装の可愛い女の子がお出ましだ。
通路にあるアウトレットの本屋で愛嬌あるおじさんから、1ユーロのポルトガル料理本を10冊相棒が買う。
あ〜ぁ、お荷物お荷物と野老は思う。〔ポルトガル料理本〕は写真展会場の飾りテーブルに並べる。
来客者に手にとってもらい、なかなか見られないポルトガルの薫(かおり)を楽しんでいただく。
そのために買ったのだと野老は気付く。瞬時の購買は、相棒の優しさだった。
「けいの豆日記ノート」
お土産は、買わないと決めているが、多少は、ほしいと思う。
普通の本屋だと、けっこう高いので、アウトレット本屋で絵本とか、料理本を探すのである。
ここで見つけたのが、10cm角くらいの小さな料理本のシリーズで、お菓子のものが多かった。
ポルトガル語は読めなくても写真や絵を見ているだけても楽しいかなと思った。
それに1冊1ユーロという破格値は、魅力であった。
重量オーバーのことを考えなくてもいいのなら、大量に買い込んで日本で売りたいくらいである。
《東京渋谷・恋文横丁の焼きそば》
その最上階にあるフードコートで、野老は素晴らしい究極の焼きそば作り名人のポルトガル青年に出会う。
長いこと忘れ去っていた〔焼きそば大好き野老〕にとっての、忘れられない究極臭覚を呼び覚ました。
ポルトガル語の『サウダーデ』(郷愁・ノスタルジア)にかられる美味そうな独特のたれ味の香りが、幾つも並ぶ店の一角から漂(ただよ)って来たのだ。
その刺激的な匂(にお)いは、50年前の東京渋谷・井の頭線ガード下にあった〔恋文横丁〕の中華店〔aa(みんみん)〕が作っていた〔焼きそば〕の香りであった。
鼻筋通ったポルトガル青年は、大きな鉄製片手中華鍋の柄(え)に白い布を巻き付け、左手でその柄をがっちり握りしめ、
右手で鉄製の柄の長い玉杓子を巧みに操り、具とソバを炒め調味料を投入し、美味そうな焼きそばを一人前ずつ作っていく。
「何処で修業したの?」とずばり聞く。
野老の顔をチラリ見て『横浜!』と応え『日本人、久し振り』と日本語で言い、二コリ笑む。
「2001年から、撮影に来ているよ、相棒とね。一人前、作ってくれる」『オブリガード!』のひと声と同時に小気味よく中華鍋に油を玉杓子でさらり流し込み、
ひとり分に小分けした中皿に盛り上げた鳥肉・もやし・キャベツ・人参・ねぎ・パインを強火でさらり炒め、予備皿に移す。
再び油を流し込み、ほんのやや平たいそばをひと球、投入。
さらり炒めて予備皿の炒めた具をそばと混ぜ合わせ、調味料を加え、ころ合いに最後に醤油ソースで味付けした。
その手さばきはプロの技。香りは50年前の中華店〔aa〕の香り。味覚の柔らかさ。
ポルトガルのこの地で古典的な日本風の焼きそばが食べられるとは思ってもいなかった。
サグレス生ビール共で9.24ユーロ(1200円ほど)であった。素直に焼きそばは、うまかった。
なにせ量が多いので当然、相棒と分けて食べた。
「けいの豆日記ノート」
サンタ・カタリーナ通りにショッピンぐセンターがあることは、ポルトを訪れたときから知ってはいた。
でも、近代的なショッピングセンターに入る時間も気持ちもなかった。
街中で、見るところが山のようにあり、そんな余裕がなかったのである。
なので、フードコートがあることも知らなかった。
街並みを造ったようなフードコートで、1軒ごとに違う建物にいる感じであった。
そこだけ写真に撮れば、街中のオープンカフェが並んでいるような感じである。
寿司の店もあり、お手頃な値段で売っていた。
味はどうなのかわからないが、食べてみてもいいかなと思った。
《発覚と阿呆鳥》
フードコートは若者、特に若い女性客が目立った。それぞれの店で購入し中央のスペースに並ぶテーブルで食べ飲み語る。
明るい声が高い天井で跳ねて散る。そんな雰囲気の中、買って来たチョコのアイスサンデー(1.7ユーロ)を舐めながら、相棒が言う。
『あのさ〜、ここ三日ばかり、メモっていないけれど、大丈夫? 歳なんだから、忘れるよ〜。
紀行文書くとき、困らな〜い? 記憶がどんどん、消えていくよ〜!』
一言ひと言がグサリ、76歳のこころに突き刺さる。野老が持参したメモノートの存在を心配していたのだ。
二日前の5月24日の夜、記入しようと肩掛けバックに入れたメモノートを探したが、なかった。
紛失に一瞬青ざめる。相棒は毎夜日課にしている、その日の二度と撮影できない映像を、ノートパソコンに保存作業中だ。
心配掛けるのも大人気(おとなげ)ない、わが胸にそっと収めた。そして、考える。
バスの中か。標高1056mの山間の〈グアルダ〉から高速バスの〈ポルト〉間か。バスの中ではメモらない。
とすると、広いバスターミナルの隅にある切符売り場から〈ポルト〉行き切符2枚を握りしめ走って来る相棒の姿が浮かぶ。
荷物番の野老はバスの腹に旅行バック2個を収めた出発5分前、運転手に切符が来ました〜!と叫び、バスに乗る時は時間ぎりぎりの寸劇を我らは演じた。
あの時か。いや、違う。あっ、あ〜ッ、あの時かッ。修理靴屋の店先カウンターに。
親父さんを撮る時、不図(ふと)メモノートを置いた、かも。その時バス運手が、野老を呼んだ。出発するよ〜と。
野老は二日前の紛失の経緯(いきさつ)を告白した。相棒のカメラマン究極の嬉しそうな微笑み。
野老は悪魔の微笑みと呼ぶ。来た〜ぁ! あの暖かい、こころ籠(こも)った応援歌『アッホー♪ アッホー♪ 阿呆〜!!♪』。
次いで、と言ったら何だが、野老には紛失には前科があった。2004年4月19日(月)。
中世の面影を残す城塞都市〈ブラガンサ〉から緑豊かな〈ラメーゴ〉への移動中、バスの 座席のネット袋に、
ポルトガルガイド本【地球の歩き方】とポルトガル語の会話本【旅の指差し会話帳・ポルトガル】それに紀行文のための大切な〔旅の記録帳〕を、
高速バス乗り替え時、慌て、置き忘れた。
当時は〔4回目の撮影取材旅〕でやっとポルトガル旅に慣れて来たと言ってもガイド本がないとこれからの旅の情報が停止だ。
旅を続ける羅針盤がないと思う。そして、教訓【ガイド本は二冊、持参すること】と知ったのだ。
「けいの豆日記ノート」
忘れ物をしたら、気がついても取りに行けないので移動する際には、点検が必要である。
荷物を数えて、置き忘れがないか確認をしている。
わかってはいても、あわてるとポカとすることがよくある。
その典型的な事件が、今回の旅の初めであるリスボン空港から、ホテルまでのタクシーの中に忘れたタバコである。
日本からのお土産で、免税店で2カートン購入したものである。
それをタクシーの中に忘れてしまったのである。
気が付いたのが、ホテルの部屋に入って荷物の整理をしてからであった。
タクシーの会社もわからず、あきらめるしかなかった。
出足から失敗して、落ち込むこと・・・ あ〜あ
《サント・イルデフォンソ教会》
YUKOさんに会うまで1時間の余裕があった。〔サンタ・カタリーナ通り〕の南端にある〔マジェスティック〕から路面電車が走る急な石畳の坂道を登って行くと
〔バターリャ広場〕があり、一段高い丘状の上にさほど大きくはないが1739年建立の【サント・イルデフォンソ教会】は、威厳に満ち太陽で輝き浮かぶように建っている。
広場には大きなカモメが舞い、スマホで観光客は撮る。スマホのカメラ機能が世の中を急変させた。
〔教会〕のファサード(正面玄関口)の両サイド壁面は11000枚のタイルのアズレージョで飾られ、教会の建物は背景のポルトガルブルーの青空でひと際美しく見える。
カメラで撮るのは相棒だけ。目的は〔人物〕だ。レンズの先には、石畳の広場から円状の石段を着飾った家族に伴って白いドレス姿の少女たちが登って行く。
とても楽しそうに家族と語り合い微笑み、教会に入って行く。
今日は、何かいいことがある日なのだろう。相棒は当然追いかけ、中に入って行く姿を野老は確認した。
ミサが終わると神父さんと白いドレスの少女たちは記念写真を撮る。家族たちの右手の中にはスマホ。
シャッターの数だけ、幾つも閃光した。
「けいの豆日記ノート」
アルマス礼拝堂と同じようにアズレージョの壁が特徴のサント・イルデフォンソ教会は、ポルトに来るたび毎回訪れている。
教会の前にバターリャ広場があるので、写真を撮るのに障害物がないのがいいのである。
今回は、いつもと雰囲気が違っていた。
まるで、結婚式やパーティのように着飾った人々がたくさんいた。
普通のミサでは、これほど着飾ることはない。
やっぱり、今日は特別な日なのか。
《8年振りの再会》
YUKOさんに8年振りで会って、初めて今日〔2016年5月26日〕の〔木曜日〕が【聖体(せいたい)の祝日】と言う日で、西方(せいほう)カトリックの祝日だと知った。
●広辞苑には[西方とは、キリスト教会のうちローマ帝国の東西分割後に、西欧に成立したキリスト教の総称。
ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会に大別する]とある。
YUKOさんと初めて会ったのは2006年。
10年前になる。その時も同じ場所で待ち、3人で話しながら石畳の坂を下り、ドウロ川沿いのレストランが並ぶ
〔カイス・ダ・リベイラ〕から〔ドン・ルイス1世橋〕の下層を渡り、対岸のポートワインのワイナリーが並ぶ川沿い
〔ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア〕を川下に歩いた総ガラス張りのレストランまで45分歩き、ご馳走になった。
2回目は2008年の8年前。その時も同じ場所で待った。
ご主人が一緒だった。
その時はご主人の運転で馴染(なじ)みのレストランに行き、ご馳走になる。
そして今日、14時30分、約束の〔サン・ベント駅〕の正面で待つ。
万歩計は、18816歩。ここに書いてない路地や坂道を歩き回ってややへばり気味なのに、数値は意外に少ない。
サングラスが似合うYUKOさんは、〈ポルト〉では名が知れ、教育関係では〔YUKO先生〕だ。
〈ポルト〉の日本語学校の先生をして20年にもなる。
日本で〈ポルト〉の大学病院の医師と知り合い、その後〈ポルト〉に単身嫁に来たという肝っ玉大和撫子(きもったまやまとなでしこ)だ。
嫁に来てから〈ポルト〉一家の中で、家事・洗濯・育児・介護・風俗・習慣・礼儀などを学習し、こなし、ポルトガル語を一(いち)から学んだと話してくれたことがある。
まさに涙、涙のテレビホームドラマ以上の、語るも涙、聞くも涙の物語である。
NHKラジオ番組にもポルトガル情報で声の出演をしている。
娘は〈ポルト〉の高校から日本に単身来日の3日後、早稲田大学を受験し一発合格。
その娘は、卒業し就職し、日本人と結婚するらしい。
息子は首都リスボンにあるリスボン大学を卒業後、ユーロ国家は就職難。
当時、会社勤めをしていた妹の船橋のアパートに単身来日。
苦労の結果いま女子大学の英語講師をしているようだ。彼の夢はミュージック。夢は何時開くか楽しみだ。
ふたりの子供の日本での生活が心配で〔母〕は3度ほど日本に来た。また結婚話で相手方にご挨拶で来日。
その度に会える時間がなくて、御免と連絡がある。ゴチになるばかりで〔おごっつお〕のお返しがしたいが、その機会がないままだ。
そんなYUKOさんとホームページで知り合って15年ほどになる。
しかし、ご主人のカルロスさんも大変だと野老は思う。お会いしても、お人柄の良さが滲むお方だ。
14時30分、約束通りサングラスが駆け寄って来るのが見えた。今日もご主人が一緒だった。
彼女は言った。『今日は〔聖体の祝日〕って言うこと、すっかり忘れてて、主人も休みだから一緒に行くっていうから連れて来た。
昼12時変更に決めて、ふたりの携帯に連絡したけど,だめで、あ〜、相変わらずのケチケチ旅を続けてんのかって理解。
KEIKOさんと、メールで決めた〔26日の木曜日〕が〔聖体の祝日〕だなんてチビットも気が廻らなくて、失敗失敗』と、サングラスの中の目が笑っていた。
今回もカルロスさんにお世話になり、ご馳走になった。
相棒のメモがあったので拝借。カメラマンと言うのは目先がきき、仕事が早い。
あの食事中に良くこれほどのメモが取れた、と野老は唖然だった。
そのメモをうつす。
〔サーモンサラダ8.9ユーロ。タコのマリネ10.2ユーロ。コーラ2.05ユーロ。3人の生ビール5杯8.5ユーロ。パン(ミリタ)トースト2.6ユーロ。
マラクジャケーキ3.75ユーロ。レイテクリーム2個5.6ユーロ。カフェコーヒー2杯2.2ユーロ。ミルクコーヒー1.35ユーロ。合計45.15ユーロ。〕
カルロスさん、6千円近くの散財をお掛けし恐縮です。料理も美味しかったし、お話も最高でした。
〔目から鱗(うろこ)が落ちる〕なんてもんじゃない。物凄い衝撃にしばらく野老は、声も出なかった。
それは、ポルトガルでは〔折鶴〕という言葉は通じない。〔オリガミ〕は皆が知っている。何故か?
その理由(わけ)は、子供の頃から〔鶴〕と言う鳥を〔見たことがない〕から当然〔知らない〕し、ポルトガルには〔鶴〕という言葉がない。と、カルロスさんは言う。
それは日本とは違い、シベリアなどの寒い所に住む〔鳥〕は、飛んで来ない。
西と南が温暖な大西洋に面した国ポルトガルには、〔鶴〕は飛来しない。
だから〔折鶴〕と言われても分からないから〔コウノトリのオリガミ〕だといえば、みんな喜ぶと思う、とカルロス医師は教えてくれた。
今年はコウノトリの子育てシーズにで当たったので、50羽以上堪能でき、撮影できたと相棒も喜んでいた。
テレビ番組で使えそうな〔ネタ〕であった。将に『世界不思議発見』だ。
「けいの豆日記ノート」
「ポルトガル人は、鶴は見たことがないから、知らない。」と聞いてもあまり驚かなかった。
見たことがないから知らないというのは、変だと感じた。
身近にいなくても動物園とかには、いるだろうし、
動物園にいなくても図鑑やテレビやネットとかで見ることもできる。
見たことがない動物とか鳥とかたくさんあるけど、名前くらいは知っているのでないか。
日本人であっても実際に生きている鶴を見たことがない人のほうが多いのではないかと思う。
折鶴をあげるときにも、日本語のオリヅルが通じると思っているわけでもなく、ポルトガル語の鶴の単語もわからず、鳥ということがわかればいいと思っていた。
ちなみに、グーグル翻訳では、鶴は、Guindaste、折鶴は、Guindaste curvoと記載されていた。
《聖体の祝日》
【聖体】の意味について広辞苑には〔@天皇の身体。玉体。Aキリストの体の称。【聖体拝領】カトリックで、聖餐式(せいさんしき)のとき聖体をうけること。〕とある。
はぐらかされたようで、よく野老にはわからない。また別の所では、『この〔祝日〕は〔聖体〕をあがめる祝日であって〔イエス〕の人生での特定の出来事を祝うものではなく、
〔木曜の祝日〕は「最後の晩餐」における聖体の〔秘跡〕と結びつけられている。
現在のカトリック教会典礼では、この祝日は至聖なるキリストの身体と血の儀式とされている。』とあったが、よく分かった。
しかし分かったことは、毎年〔聖体の祝日〕があり、その〔木曜日〕はポルトガルでも〔祝日で休日〕なのだ。
この〔聖体の祝日〕は、オーストリア・ブラジル・ボリビア・コロンビア・クロアチア・ドミニカ・東ティモール・リヒテンシュタイン・
パナマ・ポーランド・ドイツ(一部)・ポルトガル・サンマリノ・スペイン(一部)・スイス(一部)・グレナダ・セントルシアと
トニニダードなどを含む伝統的にカトリックである国の、公式の祝日であった。
忘れないために、その〔聖体の祝日〕の日付を調べたので、参考にして記憶してください。
今年(2016年)から記すと、●2016年5月26日(今日)●2017年6月15日●2018年5月31日●2019年6月20日●2020年6月11日、
東京オリンピックの年(7・24〜8・9)である。
これで今日一日、何で〔木曜日〕なのに、どこの〔教会〕も満席、〔サンタ・カタリーナ通り〕もお祝いムード、〔ボリャオン市場〕は休みで鉄扉が閉まっている、
という摩訶不思議(まかふしぎ)な現象の謎が解けて、〔もやくる心〕に光明が射し、ほっとしたのだった。
●漢字に(・・・)と読みをいれていますが、読者の中に小・中学生の孫娘達がいますので、ご了承ください。野老●
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2017年12月に掲載いたしました。
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