「ポー君の旅日記」 ☆ 城砦とダムのある村ペーニャ・ガルシア ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2016紀行文・4
=== 第3章●モンサント起点の旅 === タクシー運転手は農夫だった
《モンサントの不思議発見!》
我らが2泊の宿にした〈モンサント〉の【カーサピーレスマテウス】。
ここは、女性3人の『女人の館』だった。68歳ナッティおばさんの助言は適切だ。
我らがモンサントの巨岩路地を歩き回って、夕日撮影のポジション探しをし、歩きくたびれて宿に戻った。
ナッティおばさんは相棒の問いに、ひと言で悩みを解決してくれた。
『5月中旬の夕日が落ちる位置は、家の洗濯もの干し場から見るのが最高』と。
ここが一番素敵なお薦め撮影ポジション。そう微笑む自慢顔は、まるで太陽のように輝いていた。
相棒は、ナッティおばさんに素直だった。
オブリガーダ!(女性・ありがとう!男性・オブリガード!)連呼のカメラマン。
教訓・判らない時は、地元住民に聞くに限る。
旅の恥はかき捨ての積み重ねで、旅人は学習し、成長して行くものだ。
今年8月で77歳になるおいらは、記憶機能が減速気味になっている。
それが、辛い。だから、ギアを上げる努力とその術を怠ってはならない。
放棄すれば、その先は明白である。
そこで撮った落日が、ナッティおばさんの言う通りの映像で、時計塔の右側の大草原の先の山並みに夜空を染めて、20時40分に吸いこまれて行った。
ポルトガルの落日は、何時も遅い。だから夕食も遅い。ポルトガルに来ると、早朝から一日2万歩を歩き続けての撮影である。
疲れ果て、夜9時と言えば、相棒のお眠りタイム。
夕食を、ご一緒いかがですか?と、ポルトガルの知り合いから誘われると、お〜ォ!と悲しい雄叫びが相棒の口先から漏(も)れる。
忘れもしない、究極のこれぞ相棒がやってしまった珍事がある。
16年前の2001年9月11日。ニューヨーク同時テロ事件の、その11日後、初めてポルトガルの地を踏んだ。
ドン・ガバチョ画伯さんから誘われ、夜9時からのお食事付きの首都リスボンの[ファド・レストラン]に行く。
何を食べたかは忘れたが、ワイン通には堪(たま)らないポルトガル産ワインを飲みながら、哀愁のポルトガルの艶歌《ファド》の歌声を聞く。
薄暗いライトの下、ギターラの弦が弾かれファドの曲が流れ、歌姫が物悲しげに歌う。
10時が過ぎたころ相棒はコクリコクリと眠った。ドン・ガバチョ画伯さんの世界では、話題のカメラマンとして名を馳せたらしい。
眠りながら皆の拍手に合わせ、手を叩いていた信じられない奇行のカメラマンであった。
で、話はそれたが、この紀行文は高齢者のおいらが、記憶を手繰(たぐ)り寄せながら、月1回づつ掲載を目標に書きとめて行く紀行文、と言うよりこつこつ貯めて行く旅日記。
記憶にズレガ出ると、相棒の修正的な【けいの豆日記】が、す〜と挿入される構成。
これが、受けている! ありがたい、頼りになる相棒である。
さて、ここから問題の推理が始まる。あり得ない現象である。
落日がナッティおばさんのいう位置に沈んだ後、相棒が聞いた。『明日の朝日は、山頂のお城まで登らないと、撮れませんか』と。
すると、ナッティおばさんは、平然と言った。今、夕日を撮った位置で待ってなさい、と。
我らは、ハ〜アッ?と、声を発した。落日と同じ稜線の右端から朝6時過ぎに太陽が昇って来る。
寝坊しなければ、必ず撮れるよ、とにっこり微笑む。信じられなかった。
もの干し場から見た遥か彼方の山々の稜線の、その左端に落日が撮れた。
その右端に、朝日が撮れると言う。我らは、信じられなかった。
「けいの豆日記ノート」
モンサントは、2回目の訪問である。
1回目は、バスの時間が都合悪く、カステロ・ブランコからタクシーを頼んで、モンサントで待っていてもらったので、1時間しかいられなかった。
でも、1時間の割には、なぜかポイントをふまえていて、岩と岩に挟まれた家々をたくさん撮ることができた。
地図もなく、適当に歩いたのに、散歩にいくヤギまで撮ることができたのである。
冬場であり、岩にはコケがはえていて緑色になっていた。
青空ではなかったが、霧がかかった幻想的な感じであった。
神の山というイメージであった。
まるで、1日歩いて写したかのような画像に恵まれたと思う。
《モンサントの曙(あけぼの)》
〈モンサント〉は隣国スペインからの侵略を防御する巨岩だらけの山肌要塞の城として、日本の4分の1しかないポルトガルは隣国スペインからの侵略に耐え忍んできた長い歴史があった。
モンサントの巨岩だらけの山は、周囲360度大草原だ。だから、城を築く要塞としては最高の条件の巨岩要塞地だった。
日昇り、日落ちる、そのすべてが撮れるモンサントの住宅地位置であった。
モンサントは、北側の巨石にへばり付いた住宅地で、南側は急斜面の巨盤地帯で家を建てる余地がない岩盤山肌である。
『女人の館』は、〈モンサント〉の急斜面巨岩地帯の北側に建てられた宿であったため、西の端の夕日も見え、スペイン国境の東の稜線から昇る朝日も見えたのだった。
つまり、北に向かって突き出たもの干し場は扇の要(かなめ)、目の前の稜線の左端から右端まで、180度が見渡せたのである。
午前6時8分、暗い空間に横に長い長い、1本の明かりの線が走り、徐々に国境の稜線を浮かび上げる。神秘的な曙(あけぼの)だった。
スペインとの国境の稜線に夜明けの空が明るんで来た。夜空が淡紅に黄みを帯びたあさぼらけだ。
惚れ惚れ、美しいと想う。東の空に曙染(あけぼのぞめ)のように、上を紅に裾を白にボカした稜線に太陽が一言、出るぜ!と、顔を出す。
一瞬にして、モンサント村の眼下の裾野に広がる新興住宅地の家々のオレンジ瓦屋根と壁の白さを朝日が染め、家々に朝を告げる。
巨岩にしがみつくモンサント村の狭い石畳の路地に朝日が走り抜け、石組で建ち並ぶ家々の花崗岩壁に、また巨石と巨石に挟まれた村独特の建築様式に、温かい陽射しが染めて行く。
そんな風情を目撃できた、2016年5月20日の早朝だった。
「けいの豆日記ノート」
今回のモンサントでは、ゆっくりと時間を過ごしたかった。
あこがれの朝日や夕日を撮りたかった。
撮れそうで、なかなか撮れないのが夕日である。
陽が沈むのが9時ごろだし、町では建物がじゃまをしていて、見ることができない。
たとえ、海辺であったとしても、夕日が出るとは限らないのである。
町で見えるところまで行こうとすると、帰りは夜道を歩くことになる。
いくら、治安がいいと言われていても、夜中はあぶないのである。
それに、1日歩いて疲れているので、もう眠い時間でもある。
ホテルのテラスから、夕日も朝日も見えるなんて、なんてラッキーなんでしょう。
出かける用意をしないで、テラスから写せるなんて、無精者には、天国のようなホテルである。
《モーニングタイム》
モーニングは9時からだった。食堂に行くと笑顔が素敵なドイツ人中年ご夫婦がいた。
さっき、あなたの撮ったポルトガル写真集をイザベルから見せてもらいましたよ。
素敵!でも、こんなに・・・可愛い人だとは思わなかったと瞳を輝かせ、言ってくれた。
お幾つ?の問いに、おいらが答える。孫娘が1歳になりますと。
相棒の目が尖(とが)ったが、嘘の言えないおいらだった。
でも、呼吸は確かだ。瞬時に、相棒の手から挨拶代わりの[折鶴]が2羽、ご夫婦の掌(てのひら)に舞った。凄く、喜んでくれた。
丸テーブルの中央の山盛りスクランブル・エッグが目を引いた。作りたてか。湯気がかすかに立ち昇る。
卵5個、いや6個は使っていると思う。大好きな卵料理だ。この料理は単純さの中に美味さを引き出す味加減が大切だ。
すべて微妙なさじ加減がスクランブル・エッグの命である。
塩加減、みりん加減、胡椒加減、バター加減、酒加減、だし加減で決まる。
焼たてパンにどっさりエッグを盛り、ハムとチーズものせ、ガブリと食べた。
美味しかった。ハムもチーズも今まで食べたなかで最良の美味さ。
スクランブル・エッグは堪らない味付けだ。たっぷり堪能した。
手搾りのオレンジジュースは3杯も飲んでしまう。
こんなに美味しいモーニングは初めてかも知れない。紅茶好きなおいら、香りと色合いに惚れた。
【女人の館】の愛情たっぷりの『お・も・て・な・し』であった。
「けいの豆日記ノート」
モーニングの部屋は、受付の隣にあった。
部屋をのぞくと、テーブルがふたつしかなく、5〜6人しか座れそうにない。
前日にモーニングの時間を聞かれた。
普通のホテルは、セルフサービスのモーニングの時間を伝えてくれるのであるが、今回は聞かれたのである。
紙に8時半から15分おきに時間が書いてあった。
なるべく早い時間がよかったが、すでに8時台は「×」がついていた。
なので、9時にしたのである。
席がないので、時間差モーニングなのかと思っていたら、そうではなかった。
その時間にあわせて、料理を作ってくれるためであった。
安いホテルでは、パンとコーヒー、ハムとチーズくらいである。
少しリッチになると、丸ごとの果物、ヨーグルトなどが付く。
ビュッフェタイプなので、できたてのものは何もない。
ここでは、作りたてのエッグ、沸かしたてのコーヒー、食べやすくカットされた果物、手作りのカステラなど、びっくりした。
こんな豪華なモーニングが食べれるなんて、幸せであった。
《歴史的な城砦の村々》
〈カステロ・ブランコ〉の北東の、人里離れたスペイン国境地帯には、ポルトガル政府が認定した[ポルトガルの歴史的な城砦の村々]が、10か所ほどある。
その代表的な村が〈モンサント〉。
そこに2泊を決めた我ら。ここには、〈カステロ・ブランコ〉からバスで行けるが、他の村々まではバス路線が無い。
この10か所程を訪ねるにはレンタカーしかない。我らには渋々だがタクシーを奮発した。
昨日カステロ・ブランコからバスを乗り継ぎ、1時間45分かけ14時に『女人の館』の宿に着き、相棒のポルトガル写真集の本をプレゼント。
オーナーのエディッさん(76歳)は、やり手おばあちゃん。
その妹ナッティさん(68歳)は、料理上手。裾野の新興住宅地から通うイザベルさん(24歳)は、ベットメイキングなどの力仕事。
この3人で切り盛りして民宿を続けていた。早々、明日の足となるタクシーの手配を背の高い美女イザベルにお願いした。
この村にはタクシー会社がない。何処から呼ぶのか分からないのでタクシー手配は早めがいい。
モーニングが9時と言うことなので10時に出発だと念を押した。
10時ぴったりに予約していたタクシーが迎えに来た。2階のテラスから女人3人が見送ってくれた。
今日は2か所〈ぺーニャ・ガルシア〉と〈イダーニャ・ア・ヴェリア〉を廻って来る予定だ。
料金は走行距離と待機待ち時間でお願いした。運転手は大柄でがっちりした体格をしていた。
タイヤが急坂の石畳を噛み、ゴトゴト音をたて下る。裾野の自動車道路に出た。
見上げた車窓からのモンサント村は、巨岩巨石だらけの石の村だと改めて認識できた。
そして、もし地震が起きれば一瞬にして幻の村になってしまうだろうと思う。
でも9世紀以上も、何も起こっていない。不思議としか言いようがない。
『女人の館』の背後は急な岩盤がそびえ、その上に巨石がごろりのっているのが見えた。
みんな地震なんて起こらないと、信じて生きて来たのだ。
裾野に広がる新興住宅地だって、あれほどの沢山の巨石が転げ落ちてきたらひとたまりもなかろう。
住民たちの信じる力は、凄い。信じると言う概念なんて無いのかも知れぬ。
タクシーは100mほど走って、脇道に入り停まった。
運転手は素早く降り、足早に大きな白壁のオレンジ屋根の建物に入って行った。
2匹の犬が我らに向かって吠える。
建物は、オリーブやブドウ畑で囲まれていた。
紙包みを握りしめ、犬に向かて一喝。犬は黙った。運転手は、紙包みを軽く振って笑う。
弁当を取りに立ち寄ったのだ。タクシー運転手は、農夫だった。
「けいの豆日記ノート」
今回の旅の目的のひとつに「歴史的な村々を訪ねる」を決めていた。
後から訪問する予定のグアルダの周辺にはたくさんの歴史的な村があることはわかっていた。
いつものガイド本には、記載がなかったが、あちこち調べて、モンサント近くにもあることがわかり、せっかくなので行くことにした。
バスはあるわけもなく、タクシーを使うことにした。
ケチケチの旅ではあるが、このタクシーはケチってはいけないと思った。
後から、「行けばよかった」と嘆いても遅いのである。
《ぺーニャ・ガルシア》
前述したが、ポルトガル共和国は小さな日本の、その4分の1しかないと言うが、今回のポルトガルはでかいと感じた旅だった。
大草原をひたすら走るタクシー車窓には、白雲ひとつ浮かんでいないポルトガルブルーの青空が延々と広がる。
スペインとの国境地帯にある人里離れた、時の流れが止まった村と聞く〈ぺーニャ・ガルシア〉の高台にある駐車場に、15分で着く。
走って来る車にも、人にも出合わない草原道路を80km/hで走って来た。ひとっ走りだった。
戦車が1台飾り物のように置いてある広場だった。
ここで、1時間後に会いましょうと運転手と別れた。眼下に新興住宅地の家が並ぶ。
陽射しが強い。百均で買ってきた掌(てのひら)にすっぽり入る円形の温度計は28℃。
何処かで飲み水を買わないとね、と自分に言い聞かせた相棒は、カステロ(城跡)に行こうと石畳の坂を登る。
歩きだしてすぐにトゥリズモ(観光案内所)を見つけ、ラッキーとご機嫌で事務所に入って行く。
運は、旅のご褒美である。小さな事務所に女性が一人。地図を貰い、説明を聞いている。
ポルトガル語に強くはないが、地図の見方、記憶力は抜群だ。相手の表情や声の強弱で理解する才能はある。
今まで生きて来た喜怒哀楽の経験集大成のなせる業(わざ)か。
一緒に旅を続けてきたが、一貫してその業は崩れを知らぬ。おいらにとっても有難いことだ。
「けいの豆日記ノート」
ペーニャ・ガルシアは、ガイド本にも載っていない村である。
だれのネットで見たのかは、忘れたが、「ペーニャガルシアのお城を見ておくといい。」ということが書いてあった。
なんの資料もなかったが、ネットの地図で場所を調べて、モンサントの近くであることがわかり、行ってみようと思った。
歴史的な村のひとつであるイダーニャ・ア・ヴェリャに行きたかったので、方向は逆であったが、近くなので行くことにした。
モンサントからタクシーを頼んで、1時間の待ち時間をつげると、タクシーはその場所で待っていないで、家に帰っていった。
近いので、待っているより、家に帰って畑仕事をしたほうがいいと思ったのかもしれない。
路地を歩いていて感じたことだが、赤味を帯びた石畳は荒々しくきめ細やかさに欠け、こちらも赤味を帯びた家壁の石積にも計算された細やかさが感じられない。
この地にはかつての石組技術に長けたテンプル騎士団は関与していなかったのかも知れない。
石壁に{PENYA GARCIA}と書かれた地図があった。
カステロに昇る前に展望台があり、そこから山の中にあるダムが見れそうだから、頑張れという。暑いが水が無い。
店が無いから仕方ない。
20分ほど昇ったところに、カステロの城壁が岩肌の上に建ち、その下に広い石畳の展望台があった。
鉄柵からの景観に迫力を感じた。眼下に青い青い大きなダム湖が見え、水を落下させる水路2基もはっきり見えた。
落下先は深い岩肌の谷間があり川も見え、その川筋に赤味色の石組の小屋が点々と建っていた。
もしかしたら信州でもやっていた縦組み水車ではなく、横組み水車で粉を引いていたかもしれない。
これは推理、ご注意あれ。いまも人が住んでいるかは確認していない。
広場の片隅に巨岩を石段状に掘り切った手摺りもない赤味色の石段が、カステロに向かって伸びている。
ここの岩塊は、赤味色で硬さに欠けているから気をつけて登れよ、とおいらは相棒の背に向かって声をかけていた。
この村に入って感じていた石畳や石積壁も、この山の石を利用していたと知る。
崩れやすいから加工に苦労しただろうと思う。カステロはその岩盤を一歩一歩ゆっくり慎重に登り切った先にあった。
少し城壁と砦の跡が残り、ポルトガル国旗がたなびいていた。しかし、ここからの展望は唸る。
眼下の青いダムは手を延ばせば届きそうだったし、谷底につながる狭い道が岩肌に巻き付き下って見え、その先の小さな川に架かる橋も見え、
もしかしたら人が生活していそうな赤い大きな家もはっきり見えた。
降りて見に行きたい衝動を捨てた。危険でカメラマンに怪我をさせたくなかったし、運転手との約束の時間も間近であった。
カステロから下りて行く眼下は、オレンジの屋根瓦に白い壁のポルトガル風情がありその先は、青い空まで緑の草原が遥か彼方まで伸びていた。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2016年11月に掲載いたしました。
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