「ポー君の旅日記」 ☆ 神の使いのヘビのいたカステロ・メンド ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2016紀行文・13≫
=== 第5章●グアルダ起点の旅・4 === 神様のお導きのしま蛇のいたサンタ・マリア教会だった
《セニョール・ドライバーの【昼メシ】!》
本名マヌエル・マルティスさん、ポルトガル生まれ、52歳。
2016年の5月22日、高速バスで初めて訪れた肌寒い標高1056mのポルトガルで一番高い山間の町〈グアルダ〉。
その終着バスターミナルにあるタクシー乗り場で知り合ったばかりのタクシードライバーが彼だった。
相棒のカメラマンが人選し、ポルトガルの「歴史的な村」めぐりの案内人に抜擢した。
そのセニョール・マヌエルさんは約束通り今朝23日9時ぴったりに、下の町〈ラポーラ〉から洗い晒しの紺のジーパンに皮ジャン姿で宿に迎えに来て、
隣国スペイン国境に近い4か所の「歴史的な村」を、笑顔を絶やすことなく寒さのための冬仕度状態で案内してくれた。
その52歳男が野老76歳と親しくなったのは「歴史的な村」」めぐりがきっかけであった。
〈グアルダ〉の宿→分岐点〈ラポーラ〉→〈ピニェル〉→〈カステロ・ロドリゴ〉→〈アルメイダ〉と巡り、13時30分に次の「歴史的な村」である〈カステロ・メンド〉に向かった。
国境まで、まぢか間近の12kmにある星型要塞都市〈アルメイダ〉を撮影取材し、N340号線に出て南下した。
石ころだらけの草原が、車窓を無表情に走り去る。早い午前中、セニョールの住む下の町〈ラポーラ〉の分岐点を左のN221号線を北東に進み〈ピニェル〉で撮影取材し、更に北上し〈カステロ・ロドリゴ〉に行く間で渡った「コア川」を、今度はN340号線で再び渡り南下した。
つまりフットボール球の縦に長めの曲線状を〈グアルダ〉から出発し北東にある〈ピニェル〉〈カステロ・ロドリゴ〉と撮影取材し、
今度は南東に向かって下り〈アルメイダ〉でひと仕事し、昼飯をカフェで済ませた。
セニョールを昼食に誘ったが、若い奥さんの手料理弁当持参だから車で食べると言う。
野老は中年を過ぎた男の〔若い奥さんの作った昼メシ〕が気になる。端的に言えば、ポルトガルのタクシードライバーの【昼メシ】のリポートがしたかった。
52歳男の若妻のポートレートにも気になったが、『弁当を撮らせて!駄目なら、見るだけでもいい!』と野老は頑強に踏ん張る。
野老は61歳から初めてポルトガル撮影取材に相棒から誘われ同行し、毎年12月に名古屋市栄にある【名古屋市民ギャラリ―栄】で【山之内けいこ子 愛しのポルトガル写真展】を開催し、今年の暮にも第25回目の開催が決まっている。
で、『昼メシ』の件だが、結果は?イエローカード(カルタオン アマレ―ロ)!だった。
チビッと脱線したフットボール球タクシー走行路線に戻す。
〈アルメイダ〉からN340号線を南下しすぐにコア川を再び渡り、8kmほど走った地点で左折し〈カステロ・メンド〉に向かう。
道路標識が途中からN324号線に変わる。
寒い風の気配が、足元に忍び寄る。昨夜泊った町〈グアルダ〉の北に広がるスペインとの国境まぢか地帯であるマロファ山地に中世時代からの国境侵入防御激戦で苦しめ痛めつけられた点在する村こそが、ポルトガル政府が認めた「歴史的な村」の証(あかし)であった。
途中で珍しく、大型トラックと進行方向左側で物凄いスピードで擦れ違う。
その強烈な風圧が、感覚的に怖かった。ポルトガルは馴染(なじ)みが薄い右側通行だ。
道が左右に分かれる地点でセニョール・マヌエルさんはスピードを落とし、右は〈グアルダ〉、左は〈カステロ・メンド〉、と我らに声を出して知らせ、看板の左側を直進する。
その瞬時の看板映像を一眼レフカメラで野老は撮っていた。
黒い縦長の看板に白い文字で【BEM−VINDO(の下に)A CASTELO MENDO】の綴りが左目白内障気味の目ん玉に焼き付いた。
【ようこそおいで下さいました カステロ・メンド へ】と、心地よく【歓迎】の文字が飛び込んだ。
直進しN16号線に出て即、左に折れ進むと道はなだらかな渓谷の一本道を下って行く。
フロントガラス越しにそれほど高くない石積城壁に囲まれた小さな山村が見える。
お伽話の世界のような長閑な歴史的な村に思える。そこが4か所目の歴史的な村〈カステロ・メンド〉であった。
狭い石積のアーチをタクシーは潜ると、一握(ひとにぎ)りの赤い花崗岩の石積民家が通路になって迎えてくれた。
狭い石畳をゆっくりセニョールは運転し、更に奥に進む。
ぽっかり開(ひら)けた小さな何百年と踏み固められた石畳の広場が迫り、漆喰(しっくい)の白い壁を屋根型山型に石組の縁(ふち)が覆い、
その頂点に小さな金属で飾られた十字架が凛(りん)と収まっていた。
セニョールは当然の駐車位置みたいに教会脇にタクシーを停めた。
教会の名は「サン・ペドロ」だと我らに知らせ、この村にはトゥリズモ(観光案内所)はないと、告げる。
教会は閉まっていたが名前を示す小さなプレートが階段わきの柱に貼ってある。
「けいの豆日記ノート」
今回の旅の過去の栄光があった歴史的な村5か所は、トリズモ(案内所)があった。
ここだけが、トリズモがなかった。
それほど、さびれている村ということなのだろうか。
地図がないと建物の名前がわからないので後からコメントを書くときに困るのである。
とりあえず、地図の載っている看板を写真に写しておいた。
《売り家》
その左隣には、正方形に石積で組み込まれた鐘楼塔が建ち、その上に白い四角錘(しかくすい)の台座があり、
そのてっぺんで避雷針(ひらいしん)兼用の風見鶏(かざみどり)が冷たい風に静かに靡(なび)いていた。
ポルトガルの旅を初めて16年。
野老は石畳を歩きながらセニョールに聞く。
「人口は? 100人いるかな〜?」。
セニョールの両肩がピクリと持ち上がり、同時に左右の掌(てのひら)が咲き、瞳が閉じられた。
セニョールは正直者だった。応えて欲しかったが? アクションには野老としては不満だった。まッ、嘘を言われるより心地よかった。
13世紀にこの村で3年ごとに定期市が始まり、それがポルトガルの定期市場の始まりの原因になったと、ドライバーは案内人役になって、野老たちに情報をくれた。
ふたりは「Sim・はい」と応えた。しかし彼の情報はすべて正解だと我らは納得していない。彼も誰かに聞いた情報を語ってくれている。
人柄の本質と歴史の真実(知識)とは違う。
進行中の流れの中で判断していく判別は、微妙だ。その判断は、聞き手本人の瞬時の感覚が大切だと、野老は息を吸い、息を吐いた。
セニョールの人の良さ正直者さに感謝し、76歳の年輪で判断し接した。我らは彼を信じて同行巡りをお願いしていたのだった。
総石積一軒家に吊るされた【VENDE―SE】の看板がいくつか目に飛び込んで来た。
ちょっぴり悲しい思いも沸くが、これが現実の姿だった。
ふた晩お世話になった巨岩巨石の〈モンサント〉でも、この〔VENDE−SE〕の小さな看板が胸を射った。
【売り家】の文字には切なさがあったが、止むにやまれぬ日常生活の延長上の選択の結果だ。
移住した地で幸せになって欲しいと野老は切願していた。
この地の冬は、間違いなく寒かろう、5月の今で、この肌寒さの山間だ。
ここから2時間も車で南下すれば、30℃の真夏日だ。
日本の4分の1の国土の大西洋に面したポルトガルだが、四季があるから嬉しい野老だった。
今回で9回目の撮影取材ケチケチ旅にやって来たが、何時も新しい出会い発見の巡り合わせの旅が待っていてくれた。
「けいの豆日記ノート」
村の入り口は、大きな城壁の門が残っていて、かつては栄えた村であったことがわかる。
その門の所にヤギがいた。
4匹のヤギは城壁の門の石をなめていた。
テレビの情報番組で聞いたおぼえがあるが、岩や石から出るカルシウムをなめているのだという。
どれだけのカルシウムがでているかわからないが、生きていくうえでの知恵なのだろうか。
大人のヤギは、左右の足が前後で縄でゆるく縛られていた。
走らせないようにするためなのか、蹴らないようにするためなのかわからないが、放し飼いであった。
《ぺロリーニョ》
民家は全体が赤味を帯びた石積外壁。
細かく周囲を見ると、どの家もまッ四角で屋根の瓦も平面的な屋根葺(ぶ)木模様。出入り口の周辺ハ、長方形に細工された平石で積み上げてある。
2階の明かり採り窓は石の結晶で仕切られ、生活感を滲ませる。村の石畳通路進むが、何処からも何の音も聞こえてこない。
たまに相棒の軽やかなカメラのシャッター音が、やけに大きく聞える。
本当に、ひとも犬も猫も、いないのか!?そんな気配の不気味さが漂(ただよ)う。
赤い壁の民家の路地を進むと突然石畳の広場に出る。
小さな村の集会場のような広場の中央に、ぺロリーニョがすくっと青空に向かって出現した。
こんな小さな村にも、ぺロリーニョが生きていた。思いがけない中世時代の忘れものだ。
こんな小さな村にも罪人や反逆者を見せしめのために吊るした15m程もある吊るし首の塔だ。
今までどれ程のぺロリーニョをポルトガルの旅で見て来たことか。
町の数だけ、村の数だけ、見た。野老の大好きなアメリカ映画の西部劇。
その世界は将にペロリ―ニョの人間模様が描かれる。
必ず善悪両極端の集団があり、ぺロリーニョを拒んだ悪党一家が保安官に捕まった悪餓鬼を奪いに、夜も明け染めし早朝の町に集団(20人程)でやって来るシーンがある。
その町を守るのが中年保安官ジョン・ウエインと保安官助手で昔仲間の口の悪い歯抜けの爺。
それに憎めない歌の上手い童顔のやたら遠目が効く保安官助手。
この3人で正義は守られ町びとは安住できるのか。それに保安官を慕う酒場の踊り子リリーの運命や。
中学時代、東京の三軒茶屋に2館あった映画館で、ドキドキ観射る少年がいたのだった。
それはさて置き、この小さな石積の小さな歴史的な村も、かつてはこのぺロリーニョで村が成り立っていったのだ。
大切な命の積み重ねの葛藤で国は一歩一歩築かれて行ったと、老いていく頭脳に渇を注入し異国の地で認識を重ねた。
そのぺロリーニョが人を呼んでくれた。初めて人の声が聞えた。
ペロりーニョの広場にあるカフェ。町の人々の唯一のたまり場か。
労働着姿の以外に若い6人の男たちに出合う。彼らが今、この小さな村を守る戦士なのかもしれない。
ぺロリーニョの前に残る建物は、かつての集会場の跡地建物で、毎夜村人が集まり、村の政治を収めて来たに違いない。
この小さな村こそが、当時の国を守る砦であったのだ。そう思いたい野老がいた。
「けいの豆日記ノート」
ペロリーニョは、どこの市町村にもある細長い塔である。
大理石の塔は、彫刻がしてあり、芸術品である。
教会の前のみんなが集まる広場にあることが多く、罪人の死体を吊したという。
その吊るし方もいろいろとあり、死体の首を切って首だけを吊るす方法と、カゴの中に死体を入れて吊るす方法と、死体をそのまま吊るす方法とあるらしい。
実際に見たことはないが(あたりまえだが・・・)、ヨーロッパの中世時代の物語などでよく出てくる。
日本だと江戸時代のさらし首台にあたるのであろうか。
この時代の罪人とは、独裁的な王様に従わない反逆者のことである。
なので、罪人とは、国を良くしようとする正義感の強い人間であったことだと思う。
怖いですねえ。
《神さまのお導きのサンタ・マリア教会》
我らは、この村の砦である要塞を探す。なにせ小さな村である。青空に絵筆で乱暴に撫ぜ引いたような白い雲に味がある。
この表現では、雲の躍動が伝えられていない。絵筆を平べったい幅広に変え、軽やかにゆっくり左右に振動させてふた塗りしてみる。
まッ、そんな白雲模様である。目の先に大きな厚めの細工された石魂が一つ。周囲には岩盤が広がり城壁跡すらない。
だが遥か先に2m四方の石積塀があり、その中央にアーチ状の穴が見える。
それだけの岩盤状の広場が残っているのみ。
プレート案内もない。ここが城跡だと我らは断言した。
案内役のセニョールも苦笑で頷いた。
セニョールがサンタ・マリア教会に案内してくれた。
岩盤の小山が広がり、その奥に石積の小屋がある。石積の壁は細長く見える。
近寄ると高く石積された出入り口に黒く塗られた鉄扉があり、教会ぽい正面のてっぺんに石で彫られた十字架が小さく飾ってあった。
間違いない。教会だ。屋根にオレンジ瓦が一部あるが他はすべて青空が屋根の廃墟の教会だが石積の周囲壁は残り、奥には祭壇ぽい石組が残る。
「あッ!」と恐怖の声を発したのは、野老であった。
美しい大きめの平板石畳の上を滑るように、直径8cm程の胴周り、全長2mもあろうか、大きな茶色のしま蛇が目前2m先をユックリ横切る。
相棒は、この大きなしま蛇は神さまのお使いかもしれないと手を合わせ、旅の無事を祈りましょう、といった。
しま蛇は悠然と2m先を口から赤い舌をチョロチョロ出して通過し、一段低い次の間に姿を消した。
ほッ、とした。途轍(とてつ)もなく、おおきな蛇であった。野老は脚が竦(すく)んで動けなかった。
兎歳だった。本心、心が痺れるほど怖かった。
「けいの豆日記ノート」
廃墟になったマリア教会の中にヘビがいるとは、思わなかった。
ポルトガルで初めて見たヘビである。
今までにも、ヘビがいそうな畑とか見たことがあるが、いたとしてもヘビが人前に出ることはめったにない。
昼間から出てきているとは、思わなかった。
きっと、この廃墟には、人がめったに訪れないのだろう。
日光浴してたヘビのほうがびっくりしたのではないかな。
ちなみにヘビとかは怖くなく、じっくりと観察してしまうほうである。
《折鶴をあげる》
太陽は、まだまだ天空高くほぼ真上で輝く、14時10分。
われらはぼちぼちタクシーを停めた〔サン・ペドロ教会〕に戻らなければならない時間であった。
新興住宅地方面から小型ブルを走らせた体格の良い若者が走って来た。
「マイカーだね」と野老。「タイトルを吐かないで」とカメラマン。新興住宅地の一戸建て住宅は洒落ていた。
3階建の黄色味の新建材の壁にオレンジの屋根瓦。この小さな村の〔売り家〕の看板を下げた家の人たちかも知れない。
セニョールは足早にタクシーに戻って行く。
石積民家の路地で外国人老夫婦に出会う。
そのふたりの体格の良さにおののく。60代の老人は身長2m、体重140kg。奥さんも同じ歳格好で身長180cm、体重70kgは間違いない。
野老の目分量には間違いなし。北欧の方に見えた。相棒は背伸びして〔折り鶴〕をふたりに貰っていただく。
奥さんは子供のようにはしゃいだ。『オリガミ、オリツル』と声を出しての喜びようである。
「喜んでもらえて良かったね」と野老が吐くと、蛇の恩返しと相棒。
14時50分、セニョールの運転するタクシーはN16号線に出て西に向かい分岐点〈ラポーラ〉から坂道を登って15時20分〈グアルダ〉の宿に着く。
6時間20分の「歴史的な村」巡りの旅は無事完了。
タクシー代(走行距離+待ち時間)は、160.9ユーロ。0.9ユーロ撒けてもらい160ユーロだった。
まッ、2万円である。日本では信じられない安い貸切料金を現金で払ったあと、相棒は明朝9時に迎えに来て、バスターミナルまで送って欲しいと頼む。
若奥様にに差し上げてと、色取り取りの千代紙折鶴10羽をマヌエル・マルティスさん渡した。
52歳は少年になった。大人が喜ぶ顔には、哀愁が宿っていた。
「けいの豆日記ノート」
今回の旅では、歴史的な村々に行きたいと思った。
いつものガイド本には、記載がなかったが、いろいろと探して、グアルダ付近の村が載っている本を見つけた。
レンタカーでいく方法しか記載がなかった。
もともとバスも走っていない村なので、交通手段は車しかないのである。
なので、今回は、奮発して、タクシーを使うことにしたのである。
日本と比べれば、格段に安いのであるが、いつものケチケチの旅にはかなりの出費である。
それでも、歴史的な村を見てみたいという気持ちのほうが勝ったのである。
《〈グアルダ〉と〈トマール〉の野老の想い》
ポルトガルで最も高い標高1056mの山あいにある町〈グアルダ〉。
スペインとの国境から37kmしか離れていないこの山間の地に目を着けたのが国王サンショ1世。
1199年、スペインとの国境を守る為に〈グアルダ〉を創設するが辺境な町のため、その城砦城壁の頑丈さ防御の強固さが必要であった。
また、建設は1390年に始まり150年の月日を費やし、この町〈グアルダ〉の中心地に威風堂々と近寄り難い要塞のような頑強な建物を建設した。
それが巨大な【カテドラル(セ大聖堂)】である。
野老がかつて観た〈トマール〉のポルトガル最大の修道院である【キリスト修道院】が野老の脳裏を走る。
1147年アフォンソ1世から土地を与えられた『テンプル騎士団』が、ポルトガル建築の粋を集約した堅牢(けんろう)な〔城砦と聖堂〕を築きポルトガルでの拠点とする。
だが、1312年テンプル騎士団が禁止されディニス1世(野老が大好きな国王である。
彼の出現で今日のポルトガルは成立したと思っている)が創設した【キリスト騎士団】に引き継がれ、ポルトガル王室からエンリケ航海王子を始め代だい団長を迎える。
12世紀から16世紀まで5世紀に渡り増改築が続き、修道院ははポルトガル最大規模を誇っている。
大聖堂と修道院の違いがあれど、どちらも見応えのある威風堂々としたポルトガル建築だった。
昨日22日、セ大聖堂で行われていた正装した〈グアルダ〉市民の祝典行事に遭遇した我らは、3か所ある大聖堂の出入り口の中の、
三角形のルイス・デ・カモンエス広場に面した出口から広場に出た。ピカピカに磨かれた自家用車が広場一杯に停まっていた。
1056mの山あいの町に住む人々の車には見えなかった。堂内の祝典会場で見た人びとには、なぜか凛とした雰囲気に包まれていた。
生活のゆとりと気品すら感じられた。どんな仕事に着き、どのような日々を送っているのか知りたかった。
しかし、個人の生活に潜り込む手段も時間もなかった。
ぜひ再びポルトガル語をすらすら表現する術を磨いてからの出直しだ。何時の事やら、でも、諦めはしない。
〔フランシスコ・デ・パンス通り〕のアンテイ―クショップや〔ユダヤ人移住区〕、宿の隣の〔ミゼリコルディア教会〕〔グアルダ博物館〕などを散策し、
大型スーパーマーケットとの出会いは想定外の驚きだった。山側1階、反対側4階、地下駐車場2階、店内の広さも想定外。
広いエレベータ、広い中央空間に幾筋も延びるエスカレータ。
そんな宇宙空間基地が、標高1056mのポルトガルで一番高い山あいの町に出現していた。
なんでもある生活用品はもとより、食べ物も整っていた。日本製焼きそばの店では横浜焼きそばが人気で、我らもテイクアウト。
ケチケチ旅だから一皿ゲット。大盛りなので調度いい。
これがヒット。以外の美味しさに驚かされる。
カティーサークを買う。12ユーロ。日本で買うより高かった。
22日ぶりにカティーサークを買った水で割って氷抜きで飲んだ。水も氷も日本製がいい。
「けいの豆日記ノート」
旧市街地の端のほうに駐車場があった。
観光用の駐車場なのだろうと思っていると、たくさんの人が入っていく建物が見える。
近づいてみると、スーパーのようだった。
町中の食料品だけの小さいスーパーでなく、郊外型の大きなスーパーである。
丘の崖を利用して建てられているので、上からは、1階建てだが、丘の下からは、4階建てになっている。
旧市街地からは、1階部分しか見えないので、街並みには、さほど影響しないのである。
ぐるっと見てまわると、フードコートがあった。
ランチタイムが過ぎていたせいもあり、中はガラガラであった。
グアルダの町中にレストランが見当たらないと思ったら、こんなところに大きなスーパーができていたのである。
翌朝9時。相変わらず寒い。昨夜も暖房が心地良かった。
セニョール・マヌエルさんは時間通りやって来た。
荷物をタクシーに積み込む。いざ出発と声をかけたが、相棒はまだフロントにいた。
自動のガラスドアを開けフロントデスク。若い可愛いフロント女性ふたりに、千代紙で折鶴を教えていた。
バスの出発は9時40分だった。チケットを買う時間が迫る。お願い、5分待って!と相棒。出発だ!と野老。
フロント女性と一緒に飛び出し見送られる9時5分。
〔さようなら! チャゥ! アデウシュ! ボア ヴィアージェン(良い旅を)!〕などの言葉がごちゃ混ぜに飛びかい、タクシーはバスターミナルへと向かう。
9時20分に着いて相棒は切符売り場に走る。ドライバーへの別れの挨拶はタクシーの中で、済ませてある。
車から〈ポルト〉行きバス乗り場まで、セニョールは一緒に運んでくれた。
野老とセニョールはハグし、「ボア ソルトゥ!(グッドラック!)」と、別れた。たった二日間で、出会いと別れがあった。
いい奴だったと思う。相棒が来るまで、目の前の店の靴職人を撮った。
日本人か、初めて話をしたよ、ハッハッハッと靴職人は嬉しそうに笑った。
〈ポルト〉行きのバスが来た。9時30分を過ぎていた。
発車まであと10分。取りあえずバスの腹に大型旅行バック2個を押しこんだ。
「ビリェットゥ パラ ポルト」(ポルト行きの切符)・・・あ〜、来ました来ました!と、運転手に野老は叫ぶ。出発5分前だった。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2017年8月に掲載いたしました。
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