「ポー君の旅日記」 ☆ 聖ゴンサーロを祀る町のアマランテ2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2016紀行文・15≫
=== 第6章●ポルト起点の旅 === 雨に泣き再会に破れ和菓子屋で笑ったカメラマンであった。
《 『オブリガード(ダ)』と『ありがとう』 》
ポルトガルの第2都市〈ポルト〉の初宿〔ホテルジラソル〕2階(日本では3階)からの窓を押し開いた早朝景観は、
狭い石畳路地を歩く人びとの雨傘模様で始まる水曜日の5月25日であった。
7時20分のモーニングタイム開始と同時に食堂に入り、野老はまず絞りたてオレンジジュースを一杯グイッと飲み干し、
薄いハムと薄いチーズを2枚重ねにして、焼きたてパンに挟みこみ喰らう。
その香ばしさに満足する品の無さ。
その時、食堂の隅から笑い声と「ダンケ、ダンケ」の声が聞える。
振り向けば、相棒と老夫婦の楽しげな情景があった。
モーニングコーナーに並ぶ、飲み物や焼きたてのパンやハム、チーズなどを物色中だとばかり思っていたが、目ざといカメラマンは人の喜ぶ顔が好きだった。
老夫婦が色鮮やかな〔折鶴〕を指で挟み飛ぶ真似をし、声をあげ楽しんでいる。
『ありがとう』と頭を下げ、老夫婦に笑顔で手を振り、モーニングコーナーに向かう相棒がいた。
相棒が放った『ありがとう』の声の響きは、日本人の野老が聞いていても凛(りん)として美しく聞えた。
これも野老の独(ひと)り善(よ)がりかも知れないが、ポルトガル語の『オブリガード(オブリガーダ)』カッコ内は女性の言葉の『ありがとう』だが、共に発声抑揚が野老には同じに聞える。
日本の日常生活の中で『オブリガード(オブリガーダ)』を連発しても、素直に朝の挨拶として溶け込んでいく響きがある。
勿論ポルトガルの人びとが毎日使っても、何の違和感も起こらないと思う『ありがとう』の響きだと思う。
男性も女性も使える共通語だと野老は嬉々として確信している。
『オブリガード、ありがとう、オブリガーダ、ありがとう』この発声を繰り返してみてください。
何と美しい心に響く発声音ではありませんか。
『ここで皆様の乾杯の発声を・・・ではなく、〔オブリガード、ありがとう〕の発声をお願いします』。
声に出して、自分の声に酔ってください。今日一日、ルンルン気分、間違いありません。
「けいの豆日記ノート」
安いホテルであっても、モーニングが付くので、とてもありがたい。
あんまり安いとモーニングがつかない場合があるので、ホテル予約の際は、モーニングが付くか付かないかは、重要なポイントとなる。
外のカフェで食べれば、いいと思うだろうが、お代わり自由なモーニングは、外せないのである。
それに、モーニングの後のトイレタイムも重要である。
モーニングタイムの時に、他の観光客と会うこともよくある。
女性がいると、ついつい話しかけてしまうのである。
話すといっても、おしゃべりでなく、折鶴をあげることなのだが。
喜んだ顔を見ることが、とてもうれしいのである。
千代紙で折った鶴はきれいなので、効果抜群である。
《 おっとどっこい くわばらくわばら 》
2001年9月11日の記憶に残る〔ニューヨーク同時テロ事件〕の11日後の22日、初めてポルトガルの首都リスボンの大地を踏んで以来、今回で〔ポルトガル撮影取材旅〕は9回目になる。
来る度に相棒の手から人びとの掌(てのひら)に飛んでいった千代紙で折った〔折鶴〕は、ざっと、5000羽にはなるだろう。
【塵も積もれば山となる】とか【塵を結んでも志(こころざし)】という諺(ことわざ)もある。
気がつけば野老も76歳、後3カ月の8・18で、77歳。 遥(はるか)か、遠くに来られたもんだ。
ところで、相棒の歳は、〔おっとどっこい〕〔くわばらくわばら〕である。
この二つのフレーズは、どれ程の怖さに結びつくかというと、こうなるのだ御立ち合い。
〔おっと〕とは、気づいた時・驚いた時に発する「声」だ。
〔どっこい〕は、さえぎりとめる時の「声」。つまり〔おっとどっこい〕は〔おっと、あぶない〕の「声」に通じる。
また〔くわばらくわばら〕は、雷鳴の時、落雷を避ける呪文(じゅもん)のこと。
よって、相棒の歳をぽろりこぼしたら、それこそ野老の運命や如何にだッ。〔おっとどっこい、くわばらくわばら〕である。
「けいの豆日記ノート」
ホテル・ジラソルは、初めて泊まったホテルである。
いつもは、サン・ベント駅前のペニンスラールに泊まるのであるが、ネット予約は満室であった。
ポルトがヨーロッパで行きたい町1位に選ばれたこともあり、観光客がすごく増えているという。
全体的に値段も高くなっており、安宿探しは難しくなった。
昨日の夜、ユニットバスにお湯をためて流したら排水管から逆流してきて、部屋の中が水びたしになる事件が発生した。
あわてて、バスタオルで水を吸い取り、しぼったりを繰り返したが、
部屋の中に段差がないため、水はドンドン広がり、廊下や隣の部屋にまで浸水した。
さすがに隣の部屋の人が騒ぎ出し、フロントからモップや、タオルを持ってきて、ひと騒動あった。
古いホテルなので、排水管が狭くて、大量の水は処理不能なのかもしれない。
《 さみだれをあつめて早しタメガ川 》
花模様が描かれたピンク色のヤッケとオレンジ色のストレート色ヤッケ姿の〔テルテル坊主〕が、降ったり止んだりする小雨模様に合わせ、
この地では見たこともないド派手色彩で小雨の中を〔サン・ベント駅〕に向かって石畳の坂道を下って来る通勤通学通行人の目を楽しませ、
相棒は〔ボリャオン市場〕の手前にある〔バスターミナル〕まで歩く。
前にも書いたがド派手色彩着用は、相棒に持論があってのこと。注目を浴びている方が悪漢防止になる。
大勢の人が凝視しているから手が出せない。一理(いちり)はある。信じる者は救われるの例えもある。
バスターミナルに着くと同時に土砂降りだった。ツイテいた、と喜ぶ相棒。
今までの旅で2日続きの雨は珍しい。カメラマンにとっては、小雨も土砂降りも同じなのだ。
カメラの天敵は水滴水分。それが原因のカメラ故障が多い。カメラが使えなくなったら、そこで旅は終わりだ。
こちらですぐ手に入るカメラ機種ではないし、買えたとしてもバカ高い値段が待っている。
そのための予備カメラは持参して来てはいた。
〔テルテル坊主〕は、バスターミナルで〈アマランテ〉までの、9時発と帰路15時35分の往復券(一人13ユーロ)2枚を買う。
往復券を買った方が安いから。ふたり分で1ユーロ安くなればニカッと笑む。
ちなみに〈ポルト〉には、行き先別にバスターミナルが6か所ある。
今回の宿を〔ホテルジラソル〕にしたのも、今回の「撮影取材旅」を立案したのも相棒。
よって相変わらずのケチケチ旅の発想が色濃いが、いやいや捨てたものではない。
年々日々、野老の知的能力や脚力労働力低下に鑑(かんが)みての相棒の優しさが滲み出ていたし、
宿から200mも歩けばタクシーに乗らずとも〈アマランテ〉に行けるバスターミナルの配慮も用意されていた。
野老のすることは何もない。あるのは荷物番や大きなフロントガラス前の最前席を陣取るぐらいである。
車窓風景は12年前にはなかった朝の渋滞だった。つまり〈アマランテ〉に行くのは12年振りである。
1時間、小雨が舞い散る大きなフロントガラスの雨模様を見詰めた。
フィルム撮影時代の〔ポルトガル4回目の撮影取材旅2004年4月25日〕は、晴天の日曜日だった。
その日は〈アマランテ〉の宿に一泊の予約を相棒は旅立ち前に取っていた。バスを降りると目の前に、狭い石段があった。
登ると幅広の道路が南北に走っていた。北に向かって歩くと左側の眼下に雄大に流れる川が東西に走っていた。
いつも、100円ショップで買ったコンパスを持ち歩いているので、その地の〔東西南北〕は常に把握できた。
その幅広い道路は、実は200mほどの長い橋だった。川風はあったが暑い陽射しが照りつけていた。
川面は緑色で両岸の風景が映ってゆっくりゆったり 流れ、300mほど先に水面に映った半円の石橋が眼鏡のように見え、その右手に教会があった。
風景を眺めていると、そこら辺が町の中心のように見えた。町中でトゥリズモ(観光案内所)を探し地図を貰わないと、初めての町は歩きにくい。
12年前の快晴の〈アマランテ〉のバスターミナルは町の中にある狭いスペースだったが、
今回は無情の小雨が降る広い道の左手に〔バスターミナル〕は場所を変え広々とした大きさになり、総ガラス張りの〔トゥリズモ〕(観光案内所)もすぐ近くにあった。
さっそく地図と資料を貰う。雲間からちょッびッと青空が見えて来た。
朝からワンカットも撮っていないカメラマンは、いよいよ封印を切ったのである。
防水の袋に入れておいたカメラを肩掛けバックから取りだしたのだった。
そして・・・カメラのスイッチを入れた。・・・相棒の顔が・・・薄涙が・・・後は辛くて、野老には書けぬ。
今まで降り続いていた5月の雨量と、それ以上のカメラマンの多量の涙が〔タメガ川〕の広い川幅にゆったり豊富な水量に混ざり、
川下にある花崗岩を積み上げた眼鏡橋〔サン・ゴンサーロ橋〕に向かって流れていった。
奥の細道の〔五月雨をあつめて早し最上川〕みたいであった。
この句の季語は、〔夏〕である。
サブタイトルの〔さみだれをあつめて早しタメガ川〕の句は野老の盗作ではない。
五月雨のタメガ川にカメラマンの多量の涙がまじったため必然的に〔さみだれをあつめて早しタメガ川〕が自然発生してしまい、お許しねがいたい。
「けいの豆日記ノート」
ポルトを出るとき、雨が降っていた。
雨が降っていると、テンションが落ち込み、がっかりである。
雨の中でも、すてきな写真を撮っている人はたくさんいる。
でも、カメラが壊れる危険をおかしてまで、撮るような素敵な写真は、きっと私には撮れないと思う。
アマランテに着いたら、雨はやんでいると期待をしてバスに乗り込んだ。
アマランテに着くと雨はやみ、曇り空であった。
アマランテのバスターミナルから街方面に歩いていく途中で、カメラを出してみた。
あれ??? カメラのスイッチが入らない・・・!!
昨晩、カメラのバッテリーの充電をするために充電器に差し込んだままであったことに気が付いた。
いつも、朝にカメラにバッテリーを戻すのだが、それを忘れていたのである。
ポルトを出るときに晴れていたら、バスターミナルに行く途中で、写真を撮るので気が付いたであろうが、雨だったために気が付かなかったのである。
今さら、ポルトに戻ることもできず、アホな自分に蹴りを入れるのであった。
《 巡礼路の「テルテル達磨」と朝市 》
〈アマランテ〉は、隣国スペインのイベリア半島北西端にある、聖地〔サンティアゴ・デ・コンポスティーラ〕ヘの〔巡礼路〕としても知られ、
〈ポルト〉に流れ込むドウロ川の支流である水量豊富な〔タメガ川〕の水郷の里としても、バスで1時間の〈ポルト〉の避暑地とも言われている、
自然美が豊かな静かな保養地であった。
肩にかけた撮影器材入りバックの上から、花模様にピンクのヤッケを頭からすっぽりかぶったカメラマンは「テルテル坊主」そのものであり、
バックなどで下半身に膨らみもあって「テルテル達磨」にも見えた。
その縁起かつぎの効き目か、小雨もいっとき収まる。
滔滔(とうとう)と五月雨を集めて150mほどの川幅一杯に流れる〔タメガ川〕を、初代ポルトガル国王が生まれた町〈ギマランイス〉に抜ける200m程の国道の橋の上から、
下流に広がる〈アマランテ〉の水郷の古都の景観を我らは楽しめた。
橋を渡ると眼下の川沿い公園が、白いテントで囲まれた露天朝市になっていた。
40店ほどだったが意外に客は多い。衣料品が中心で、相変わらずのドでかい赤白黒青薄茶色が主流のブラジャーが、店先に壮観なナイヤガラの滝のように吊るされていた。
野老ほどになれば、赤面は似合わない。ブラジャー売りのおばさんとも笑って喋れる。
男衆に人気な店は、ナイフや包丁、畑仕事に便利な新品の鍬(くわ)鋤(すき)鎌(かま)などの農器具に見射る姿が印象的であった。
果物や野菜はポルトガル各地の市場でも豊富で新鮮、しかも安い。大きな真っ赤なスイカ4分の1が美味しそう。それに色艶抜群のサクランボ。
〔テルテル達磨〕が、ちょっと味見させて、と手を出せば、5~6粒掌(てにひら)にのせてくれる。
食べて、一言、笑顔で『エ ボン!美味しい!』は、礼儀である。
「けいの豆日記ノート」
アマランテでの1眼レフのカメラは、飾り物であったが、ポー君日記用のコンパクトカメラは持っていた。
1眼レフのカメラが使えないので、コンパクトカメラの画素を良くして、使うことにした。
情けないが、しかたがない。
雨だから、小さいカメラを使っていることにしよう。
常設市場の横の広場で露天市場が開催されていた。
小雨模様なのに、店を出していた。
商品がぬれないか、心配であったが、気にしないようである。
いつもだったら、雨降りだとがっかりであるが、今日に限っては、雨でよかったと思えるのである。
晴れていたら、ショックはもっと大きかったに違いない。
《 開き干し鱈~バカリャウ~秘話 》
ポルトガル料理に欠かせない〔開き干し鱈(たら)〕は「バカリャウ」と呼ばれ、日常生活の主役級食品である。
露天市場続きの常設市場では生魚も売られているが、野老には山積みされた〔開き干し鱈〕が気になる。
日本より安かったが、厚み1.5cm(1円玉1枚半の幅)もある全長60cm級で2000円の値がつく。
ポルトガルでも高値になっていた。日本で買えば5000円は越す逸品だ。
野老が現在住む魚貝類豊富な知多半島でも、最近厚みのある〔開き干し鱈〕は入手が困難である。
塩分たっぷりで乾燥された保存食〔開き干し鱈〕は、昔から頭は付いていない。
お正月が近づくとぶ厚い〔開き干し鱈〕を、井戸水をくみ上げ半日(6時間)ほど水さらし。
鱈の産地によって干し鱈の塩分濃度に差があるため、時々さらした身を小さく裂き、真水で洗って口に運び塩加減を視る、そんな亡き母の姿を思い出す。
戻し過ぎると不味(まず)くて料理につかえない。そのさらし加減の美味さが母の味だった。
内緒で野老は、その戻し鱈をあぶって喰うのが好きだった。あの美味さは今も忘れられない。
野老がほそぼそ焼き食いしたのは、戦後の26年頃、〔品川泉岳寺伊皿子〕から〔赤土の田舎だった世田谷〕に引っ越した時代(小6ころ)だったと思う。
ポルトガルの食堂に入れば、塩っ辛いバカリャウを水で戻し、ほぐした身で作る家庭料理は数知れず。
たとえば「千切りバカリャウとジャガイモの卵とじ」は美味しかったし、「バカリャウ・ア・カーザ」の〔揚げた鱈身に玉葱・薄切りフライドポテト炒めあわせ〕は、
サグレス生ビールの友であった。
しかし、鱈の生身の料理はレストランで食べれば、我らケチケチ旅人にとっては高嶺(たかね)の花である(野老、食べた記憶がない)。
『食いもの屋に入って、バカヤロウ!って言えば、バカリャウ料理が必ず出て来るよ、すぎさん』と教えてくれたのは、
2001年野老62歳の9月、初めてポルトガルの首都リスボンで会った〔ドン・ガバチョ画伯〕である。
その画伯ご夫妻に、帰国前にふたりが住むド田舎〈アザルージャ〉で会うことになっている。楽しみだ。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルばかりの写真を撮っていると、本やパンフやテレビ番組から「ポルトガルのこういう写真ありませんか?」という問合せがよくある。
制作側からポルトガル大使館に問い合わせて、こちらに回ってくる場合もある。
協力はしようと思っているので、古い写真や画像も探して、目的に合うものを提供したりしている。
先日、「干しタラがポルトガルでたくさん食べられてるという特集をしたいので、食べている人たちが映っている画像がほしい。」
という某テレビ局制作から問合せがあった。
レストランでの食事中の人たちや市場での干しタラの売っている様子など、過去にさかのぼって探して、見本として縮小版をメールで送った。
そのあと、何の連絡もなく、もう使わないのかと思っていた。
仕事があったので、番組は見ることができなかったが、使っても使わなくても、メールひとつくれるだけでいいのにと思う。
画像を探すのにけっこうな時間がかかったのに・・・
こういうことがあるとガッカリする。
(友人の話だと、私の画像が予告編に使われていたという。
干しタラを持った市場の男性の格好が写真展に展示されていた物と同じだったという。)
《 「はい、さッ ほい、さッ」と〔ポーロ・デ・マルテ―ロ〕 》
常設市場を出てタメガ川に架かる石組花崗岩の眼鏡橋〔サン・ゴンサーロ橋〕に向かう鼻っぱしを、大粒の雨が襲う。
カメラマンは咄嗟(とっさ)の判断で目の前の〔アマデオ・デ・ソウザ・カルドーソ美術館〕に飛び込む。
雨が降りださなければスルーしていただろう。こういった咄嗟時ほど、油断ができぬ。旅では、常に先読み状況判断が求められる。
つまり、瞬時の〔KY〕が大切なのだ。相棒が『はい、さッ、パスポート!』と言うや否や、野老は「ほい、さッ」とパスポートを突き出す。
『早いね、ご老体!』と機嫌がいい。ボサッとモタモタは、死を招く。
パスポートは常に持参し、即刻提出できるように。これ、旅の鉄則だ。
反応力を磨いておかねばならぬ76歳、頑張っていた。
美術館入館料一人、0.5ユーロ。
ポルトガルでは、入館料金が必要な美術館・博物館・修道院・世界遺産などは、65歳以上はパスポート提示で半額になる所が多い。
よって、ボサッとモタモタしていると半額料金が飛び去って行くからご用心。
小さな町にある美術館としては細長く大きな美術館であった。かつての修道院を改装した広々とした美術館だが、作品は撮影禁止。
だから快晴だった12年前は当然入館してなかった。作品を見て回り、雨に打たれる内部回廊から観る空は、雨雲の流れが速い。
入館代は、雨宿り代だった。
有難いことに、美術館と〔サン・ゴンサーロ教会〕はお隣合わせ。
濡れずに、〈アマランテ〉の守護聖人である聖サン・ゴンサーロの縁結び神さまを拝した我らであった。
〔サン・ゴンサーロ教会〕はなかなかの教会で、天井のドームも高く祭壇も素晴らしい。
今までいろいろな教会の祭壇を見てきたが細工に手抜きが無い繊細な美しさがあった。
資料には、ゴシック、ルネッサンス、バロックの様式を施した1540年に建造が始まった教会だとうたっている。
ゴンサーロ聖人は別室に安置されていた。
毎年6月の最初の週末に〔サン・ゴンサーロ祭〕が行われる。
この祭りには良縁を求めて国中から多くの独身女性が集まって来る。
かつては教会に祀(まつ)られた木像〔聖人ゴンサーロ〕の秘部に結ばれた有難い紐を祈りながら、ちょんちょんと軽く引っ張れば、良縁が授かるという言い伝えがあった。
今も続く〔サン・ゴンサーロ祭〕のレプブリカ広場には沢山の屋台が出店し、そのすべての店では、
男性秘部の形をした大小の菓子〔ポーロ・デ・マルテ―ロ〕まで人気商品として売られ、大きいチンチンは1mもあるというから驚きだ。
ちなみに、この菓子は粉と砂糖と卵の白みで造られていると聞く。
と同時に野老の想像力が膨(ふく)らむ。噛むときっと、硬いチンチンだろうと、想像できる野老だった。
実体験でなしに想像で、硬さまで書いてしまい、失礼いたします。
「けいの豆日記ノート」
雨が降ると写真が撮れない。
カメラが壊れるのが、困るからである。
どっちみち、バッテリーのないカメラでは写真は撮れない。
小雨なら、町を歩くこともできるが、土砂降りではそうもいかない。
こういう時には、教会や博物館や美術館に入るのである。
美術品を見ても価値などわかるわけでもないが、とにかく見ておく。
ほとんどのところが写真撮影OKなので、資料作りには、いいのである。
でも、この美術館はめずらしく撮影NGであった。
博物館のように展示物が古いものは、著作権がないが、美術館は最近の画家のものもあるので、著作権が発生するのかもしれない。
これは、個人的考えなので、さだかではないが。
《 顔で笑って心で泣いて 》
教会を出ると雨上がりの濡れた〔レプブリカ広場〕を行き来する人がタメガ川に架かる橋を渡って来、渡って行く。
この〔サン・ゴンサーロ橋〕は1790年に再建されたもので、元の橋は1763年の洪水で流されたという。
広場に接して4階建のアーチ型古典的な窓が白壁で覆われ、0階レストラン前には白いテーブル、白い椅子、白いパラソルが雨上がりと同時に人の手で1本1本開いていった。
奥に連らなる濡れて輝く石畳の細道景観には、しっとりした〔巡礼路〕の情緒が感じられる。
少しばかりの登り坂の石畳に吸い込まれて行けば、12年前にお世話になった白い館の宿のオーナー婦人に再会だと、「テルテル達磨」は急いだのだった。
(12年前の紀行文) 『ドナ・マルガリッタ』は、今夜泊まる宿だった。
狭い石畳の坂道にあった果物屋のおばさんに聞くと、ニコニコ笑って、指差した。
50mほど先に真っ白い二階建ての〔ドナ・マルガリッタ〕らし気建物が見えた。近づくと、 ホテルと言うより小奇麗な民宿という感じだ。
白い扉を押し開けると、小さなフロントで笑顔の可愛いおばさんが迎えてくれた。
相棒が名乗る前に『本当に来てくれたのね!』と、おいらが送ったFAXを摘み、ひらひら見せて喜んでくれた。
予約しても来ない客が多いのかも知れない。 日本から約束通りやってきたのが、嬉しかったに違いない。
部屋に案内してくれた。天井の高い白で統一された部屋は、部屋のテラスから差し込む日差しで清潔感いっぱいだった。
そして、テラスからの風景がいい。緑緑と芽吹いたぶどう畑の先15mほどには、さっき見た川(タメガ川)が流れ、
川岸には大樹(チーク樹)が並び天を突き、その上空に紺碧の空が広がっていた。一服の絵であった。川風が優しく吹いてきた。
テラスに出て判った。川のほうから見れば、この建物は3階建てだった。
3階建てのペンサオン4星の宿であった。ひと部屋代50ユーロ(7000円)モーニング付き。 相棒が言った。
『まっ、いいか!テラスからの景観は、10ユーロはするよ!』。通されたこの部屋で決まりだ。おばさんがオーナーだった。
持参の《愛しのポルトガル写真集》をプレゼント。
おばさんは表紙を飾るカメラを構えた相棒の顔を指し、あんただね!と、嬉しそうに何度も相棒に問いかけた。
でも、部屋代は安くならなかったが効果は如実だった。
トゥリズモ(観光案内所)の場所を聞くと、大学教授みたいなご主人が案内してくれた―――――。
12年の歳月が流れ去ろうが、一度通った道は決して忘れぬ相棒である。
〔警察犬〕みたいな臭覚と記憶力抜群の〔相棒犬〕だった。その〔地理読解力抜群〕の〔テルテル達磨〕は、雨上がりの石畳の路地を突き進む。
何処から呼び戻すのか雨で流された石畳の路地裏を通り、記憶の透し力の業なのか、野老には計り知れぬ世界観が相棒にはあった。
石畳の坂道から観た2階建の、あの真っ白い建物〔ドナ・マルガりッタ〕は、あった。
しかし、金網の柵に囲まれ閉鎖されていた。夢がつぶれた瞬時であっても〔テルテル達磨〕の気風(きっぷ)の良さは、気持ちが良い。
行動を共にする人に不快感を残さない。顔で笑って心で泣いて、相棒の気風の美学がにじむ瞬時を観た。
「けいの豆日記ノート」
12年前に初めてアマランテに来て、泊まったホテルを探してみた。
たしか、この辺にあるはずなのだが、見つからない。
よく似た建物は看板もなく、住んでいるようすがない。
ひょっとして、廃業してしまったのであろうか・・・
その当時、ネットでの予約でなく、ガイド本から安そうなホテルを探して、ファックスで予約をしていた。
あまり情報がなく、ホテルの場所くらいしかわからなかった。
着いてみると、テラスから、タメガ川岸が見えて、景色のよいホテルであった。
ホテル代は、ちょっと高い気がしたが、たまにはいいかなと思い泊まったのである。
家族的な温かいホテルであったのに、残念である。
《 和菓子と82歳 》
右側にある石畳の細い下り坂道の奥から現れた乗用車が、曲がり角に建つ建物を半円描いて眼前を廻り込み、左側の細い石畳の坂道を登って消えた。
曲がり角に建っているのは何十年とこの町の人びとと、各地で生きて来た家族や親戚(しんせき)、友人の接点となって来た大切な郵便局である。
真っ赤な円筒形のポストが、その郵便局の正面横にデンと構(かま)え、その前を次々に現れては半円を描いて消えていく自動車。
まるでここに住む人々の自慢の〔自家用車ファッションショーの舞台〕だと、カメラマンは絶賛した。
間口は狭い全面ガラス張りで奥行きがある床屋さんを発見。
カメラマンは臆(おく)することなくスルリ入る。
一番手前の職人さんに交渉するカメラマンや店内の奥に並ぶ5面の鏡に5台の床屋椅子に5人の職人と5人の客は男ばかり。
表の通りからガラス越しに丸見えだ。水曜日の12時昼前。なのに長椅子には満席待ち男衆。
気付けば職人衆にも客衆にも、長髪姿は一人もいない。すべて短髪、〈アマランテ〉刈りか。
思うに、ポルトガルでは都会でも田舎でも、若くても意外にハゲが多い。それが背広姿で闊歩(かっぽ)する姿はなかなか格好がよろしい。
フットボール(サッカー)選手のクリスティアーノ・ロナウドさんはハゲてはいないが、ポルトガルのマデイラ島フンシャル出身は別格だ。
撮影した後、相棒は職人衆や客男衆に千代紙で折った〔折鶴〕を一羽一羽『オブリガーダ!』と頭を下げながら言う姿がガラス越しに見えた。
12時半、通りがかりのカフェ内でフラッシュが何度か光る。
相棒は『お茶にしようか』とカフェに入って行った。ケチケチ旅ではめったにない相棒の偶発的行動には、何かの意味が必ずあることを野老は知っていた。
小雨や土砂降り、ほんの少しばかりの小さな青空。今朝(けさ)から派手派手雨合羽に包まれての4時間半〔テルテル坊主〕に〔テルテル達磨〕の身体は、冷え切っていた。
後は、〔言わぬが花〕、〔言わぬは言うに優(まさ)る〕であろうか。
ここのカフェのケーキが有名で、雑誌の取材が入っていた。
カメラマンと言うのは目敏(めざと)いようで相棒の後を追う野老が首から下げているカメラ(安物のニコン)に気づき、
ドでかい最新型のニコンカメラでケーキ撮影中の手を止め中年野郎は「ニコンは最高だ」と英語で言う。
「・・だね」と野老。長居は無用だ。店の奥に行く。
「けいの豆日記ノート」
以前は、ホテルだった場所の近くに新しいカフェがあった。
かわいいお菓子が並んでいたので、帰りには寄ろうと思っていた店である。
テレビ取材なのか、雑誌取材なのか、数人の撮影隊がいた。
やはり、有名な菓子店だったようである。
ポルトガルでは、めずらしい繊細な手作りお菓子がならんでいた。
その菓子を写していたカメラマンは、ニコン製の1眼レフカメラを持っていた。
キャノンか、ニコンのカメラは、ポルトガルでもよく見る。
やはり、日本のカメラはいいのだと思う。
洒落たガラス張りのテーブルに木製の椅子が似合う。座った目の前は一枚ガラスの贅沢さ。
その向こうには、タメガ川まで雑草をきれいに刈り取った広い緑の空間が広がり、タメガ川対岸には森林、その遥か奥に大きな空があり、白い雲の流れの中に青空が見え隠れしていた。
生ビール(1.5ユーロ)コカコーラ(1.5ユーロ)小さな菓子2つ(2ユーロ)計5ユーロ。
ビールの冷たさが喉元を過ぎ、五臓六腑(ごぞうろっぷ)に沁み渡る美味さ。
そこに撮影立ち合を終えた品の良い女性が挨拶に見えた。
『日本のお方ですよね』と日本語で切り出した。
彼女は82歳になるこの店のオーナーで、若い時2年ほど京都の和菓子屋で修業をしたそうで〔アマランテの和菓子〕を作り続けていると嬉しそうに語ってくれた。
記念にと、千代紙と折鶴5羽を相棒が差し出すと、オーナーは千代紙の絵柄の中から1枚抜き取って『招き猫』と言った。
右手で招く、左手で招く〔招き猫〕の違いについて、野老の独演会に82歳は声をあげて笑ってくれた。
右手で招くと友や客が集まって来る。左手で招くとユーロが、がっぽがっぽと入って来る。
その仕草が可笑しいと喜んでくれたのだった。
気がつけば〈ポルト〉に帰る時間、15時35分が迫っていた。乗り遅れたら往復切符が霧散する。
そんな勿体無(もったいな)いことは、我らの旅では御法度(ごはっと)であった。
●漢字に(・・・)と読みをいれていますが、読者の中に小・中学生の孫娘達がいますので、ご了承ください。野老●
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2017年10月に掲載いたしました。
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